2012年08月16日

血だるまさんが殺した

血だるまさんが殺した

 血だるまさんが殺した。だるまさんが転んだの元になったと言われる怪談だ。

 血だるまさん。血だるまになった男が自分を殺そうとする。手に持った刃物で肌を切り刻み、自分と同じ血だるまにしてから殺す。

 その姿は見えない。人が見ている間は姿が見えず、触れることもできない。まるでそこにいないかのように。

 でもいる。見えたときには手遅れだ。目の前まで近づいて、殺すときにだけ姿を見せる。その姿が見えたらもう逃げられない。切りつけられ血だるまにされてしまう。

 人が見ているときは見えない。触れない。血だるまさんは人が見ていないときだけ姿を持ち、動くことも触ることもできる。

 つまり人がまぶたを閉じている間だけ実体を持ち、近づいてくる。目を開けて見ている間は実体を持たず、動くことができない。

 目を瞑っている間、血だるまさんが近づいてくる音が聞こえる。だらだら流れる血が滴る音が聞こえる。

 でも地面に血は残っていない。目を開けても地面は血に濡れていない。

 気のせいかと思ってまばたきする。その一瞬に、音が聞こえる。さっきより大きい。近づいている。滴る血が地面に落ちる音がする。

 何かいるのだろうか。見えない。目を閉じてこする。すると目を瞑っている間、近づいてくる血の滴る音がする。

 恐ろしくなって逃げようとする。後ろを向いて走りだそうとする。

 これは駄目だ。血だるまさんは見ている間だけ姿を失う。後ろを向いて逃げ出せば見ることができない。血だるまさんは後ろから追いかけてきて足を切りつけてしまう。

 足を切られ、転んだらおしまいだ。背中にのしかかられ、後ろから刃物で目を切られる。目を切られたらもう血だるまさんを見ることができない。あとは全身を切り刻まれ、血だるまにされなぶり殺される。

 まばたきしたときに一瞬聞こえる血の滴る音。それを聞き逃してはいけない。気のせいだと思ってまばたきするたびに近づいてくる。間近まで近づかれたらおしまいだ。目の前でその姿を現したが最後切り刻まれ殺される。

 対処するにはどうすればいいのだろうか。

 左右の目を交互にまばたきする。いずれかの片目を常に開けて血だるまさんを見ている。そしてじりじりと後ずさりする。

 それで距離を取ることはできる。でも撃退できない。血だるまさんはいつまでも追いかけてくる。

 寝ている間は目を閉じているから血だるまさんが自由に動ける。だからいずれ必ず追いつかれて殺される。

 どうすればいいのだろう。それが「だるまさんが転んだ」なのだ。

 血だるまさんはまばたきの一瞬でも近づく。これは完全に両目を閉じているのを見て確認してからその間だけ姿を見せて近づくのだ。

 目を開ける前に動きを止めて姿を消す。血だるまさんは動いているときは姿が見える。止まっているときは見えないし触れない。その姿を完全に消せる。

 動いているところを見られたら負け。見られずに目の前まで近づけたら勝ち。血だるまさんはそのルールに縛られている。

 だから、目の前まで近づかれる前にその動いている姿を見る。そうすれば、血だるまさんは消える。二度と現れない。

 これは遊びなのだ。ルールに則ったゲームなのだ。

 怪談にはすべて撃退法がある。それはお化けにとっての遊びだからだ。勝てば殺す。負ければ消える。人間にとっては命がけなのに、お化けにとってはただの遊びなのだ。

 血だるまさんは同時に一人としか遊ばない。だから複数の人間が常に同時に見るということはできない。血だるまさんに目をつけられた人間一人だけが血だるまさんと命がけのゲームを遊べる。

 なんとかして血だるまさんが動いている姿を見ないといけない。でも相手はまばたきの一瞬の間に動いて止まることができる。それをなんとかだまし裏をかいて姿を見ないといけない。

 連続でまばたきするか。あっという間に近づかれてしまう。片目ずつまばたきしていてもいつまでたっても遊びは終わらない。血だるまさんは相手が両目を閉じない限り動かない。

 両目を閉じて、血だるまさんの裏をかいて目を開ける。血だるまさんがまだ動けると思っているときにどうにかして目を開けないといけない。

 血だるまさんは相手がまだ目を開けないと思っている間は必ず近づいてくる。そうでなければ遊びにならない。相手が疲れて眠るまでねばるのでは卑怯だ。遊びを仕掛ける以上積極的に挑んでくる。消極的に絶対勝てるようなずるい方法は取らない。

 そこが鍵だ。なんとかして、まだ目を開けないと思わせ動かせる。そして予期せぬときに目を開ける。それが血だるまさんを撃退する方法だ。

 血だるまさんが殺した。その怪談を、小さい頃はとても怖いと思っていた。

 でも今の歳で怪談なんか信じていることはない。一度も怪談にあったことはない。幽霊や宇宙人と同じように、怪談を信じなくなっていた。

 だから気づくのが遅れた。

 学校の帰り道、私は一人で歩いていた。

 周りに人はいない。だからまばたきしたときに聞こえた音は気のせいだと思った。

 水が滴るような音。でも水のようなきれいな音ではない。もっとペンキみたいにドロリとした粘っこい液体が滴り落ちる音。

 はじめは気のせいだと思った。でも何度も聞こえてくる。次第にはっきりと大きな音になってくる。

 立ち止まって耳を澄ます。すると聞こえない。

 まばたきする。また聞こえた。周りを見回す。誰もいない。何もない。

 何度もその音を聞いて、ようやく気づく。まばたきするたびにその音が聞こえてくることを。

 何だろう。こういうの、何かで聞いたことがあるような。目を瞑って思い出そうとする。

 そのとたん、重く粘つく水音が激しく鳴り響く。

 ボタボタボタボタ。

 驚いて目を開ける。何もない。でもたしかに、前のほうから聞こえた。結構近い。数メートルぐらい向こうから聞こえた。

 そこには何もない。じっと見ても何もない。凝視して目が疲れた。まばたきする。

 ボタッ。

 聞こえた。はっきり聞こえる。すごく耳に響く音。

 冷たい汗が吹き出る。やばい。これ何かすごくやばい。

 まばたきするたびに音が大きくなる。近くなる。何か知っている。思い出さないとやばい。

 まばたきすると近くなる。近づいてくる。目を見開いたまま必死に考える。混乱して焦る。目が乾いて痛い。

 なんだっけ。まばたきするたび近づいてくる。なんだっけ。なんだっけ。やばい。思い出さないとやばい話だった気がする。

 やばい話。どうやばい。殺される。そう。殺されてしまうはずだ。

 あっ。

 ようやく思い出す。

 血だるまさんが殺した。そう。小さい頃に聞いた怪談だ。

 私は目を片方だけ閉じる。開いたままで乾いた目を潤す。

 目を開いて、もう片方の目を閉じる。開きっぱなしで痛んだ目がいやされる。

 これでよし。目を交互に開いたり閉じたりしているうちは大丈夫だ。

 でもいつまでもこうしてはいられない。血だるまさんは一人としか遊ばない。他の人がもしいてもその血が滴る音は聞こえない。他の人にとっては知覚できない。だから誰にも助けを求められない。

 たとえ家に逃げ込もうと関係ない。部屋の中まで追ってくる。目を瞑って寝ている間に殺される。血だるまさんから助かるにはどうにかしてその姿を見て撃退するしかない。

 怖い。涙が出てきた。なんで私がこんな目にあうのだろう。いやだ。怖い。助けて。

 怖くてふるえる。でも自分でどうにかしないといけないことはわかっている。

 どうしよう。怪談ではどうしていたっけ。

 血だるまさんをどうにかだまして、動いている間に目を開ける。動いているときは姿を現している。その姿を見たら勝ちだ。血だるまさんは負けをくやしがりながら消える。

 目を瞑っている間だけ姿を現し近づいてくる。近づかれすぎて目の前まで来られたら負けだ。その血塗れの恐ろしい姿を見せつけながら刃物で切り刻まれ殺される。

 肝心の、どうやって動いている姿を見るのかがわからない。いくつか聞いたことがあるがどれもまゆつばだ。こうして対峙してみてはじめてわかる。その恐ろしさを音と気配で感じてみてはじめてわかる。

 血だるまさんが殺したはだるまさんが転んだの元になったと言われている。だから血だるまさんを転ばすというのがたいていの対処法だ。聞いた話はどれもそうしている。

 目の前まで来たときに、押して転ばせる。これはたぶん無理だ。あの血の滴る大きな音。たぶん血だるまさんは身体がかなり大きい。私みたいな女の子が押したところでびくともしないだろう。

 目を交互にまばたきしながら、音のしたところまで近づく。そして後ろに回る。目を瞑り、ひざかっくんの要領で血だるまさんのひざを折らせて転ばせる。

 これも同じ理由で無理だ。私が何をしたところで転ばせられるとは思えない。

 目を開けたまま血だるまさんをののしって泣かせるというのもある。泣きじゃくるときは身動きせずにはいられない。でもこんなの通用するとはとても思えない。こっちが何を言っても聞いてくれるとは思えない。

 とんちをきかせて追い返すというのもあるがそれも聞いてくれないだろう。近くにいてはじめてわかる。こいつは話を聞いてくれるような奴ではない。

 どうしよう。どうしよう。わからない。焦りだけがつのる。

 目を交互に開け閉めするというのは結構疲れる。普段はそんなことをしないのだ。私はうっかり両目でまばたきしてしまった。

 ボタリ。

 大きな音がする。血の滴る音。近い。かなり近くにいる。

 私は悲鳴を上げて後ずさりする。でもこんなの解決にならない。いつまで逃げても一緒だ。最後には目の前まで近づかれ殺される。

 どうしよう。ああ。怪談というのはなんで話をおもしろおかしく書くのだろう。実際に遭ったときには使えない方法ばかり伝えている。子供が読んで喜ぶように作られている。だから実際の撃退法としては役に立たない。

 あああ。なんでこんな目に。私ここで死ぬのかな。いやだ。いやだ。死にたくない。

 ボロボロと泣く。どうしていいかわからない。

 死ぬことをはじめて意識した。こんなに恐怖で身がすくむものなんだ。身体が冷凍されたみたいだ。頭の中まで凍り付いたみたいに寒気がする。

 半狂乱になりながら考える。血だるまさんが殺した。だるまさんが転んだ。何かヒントがあるはずだ。転んだというのは殺したというのにかけているだけではないはずだ。

 動くところを見るというのはどうにかして転ばすということだ。ただ動いているところを見るだけでなく、結果として転んでしまうようにし向けるんだ。

 転ばせる。転ぶ。倒れる。手をつく。ひざを折る。寝そべる。死ぬ。

 死ぬ?

 いやだ。死にたくない。

 そうじゃない。何かひらめいた気がした。わからない。でも何か、電撃に打たれたような衝撃があった。

 もう何時間たったのだろう。たぶん五分もたっていない。死の恐怖におびえながら考える。その一秒一秒が何分にも感じられるほど疲労する。

 私は疲れはてていた。もう絶望だ。どうしようもない。もうこれしかない。こうするしかない。

 私はぐったりとくずおれ、目を閉じた。

 ボタボタボタボタ。

 血の滴る濁った音が鳴り響く。それがどんどん近づいてくる。怖い。ふるえる。怖すぎて目を開けられない。

 その音はどんどん近づき、もう目の前まで来てしまった。

 もうおしまいだ。恐怖に腰が抜けた。じりじりとあとずさりしてもすぐに追いついてくる。もうどうしようもない。ここで目を開けたら殺される。助からない。

 私は目を瞑ったまま、がたがたふるえる。音が聞こえる。匂いがする。血の匂い。大きな男が目の前に立っている気配がする。その全身から滴る血の音がボタボタと鳴り響く。

 ひいいい。助けて。ボロボロ泣く。怖い。怖すぎる。目を開けたい。でも駄目だ。目を開けたら殺される。助からない。

 ボタボタボタボタ。血が滴る音がする。大量の血が滴り落ちる。地面を濡らす。その血が水たまりとなり、そこへ滴り落ちる血がボチャボチャ鳴る音がする。

 血だるまの大男が血だまりに立ち血を流す。その光景を考えただけで恐ろしかった。血の音と匂いがするからいやでも想像させられる。恐怖に泣き叫びながら目を見開いて逃げ出したい。

 でも駄目。恐怖に負けちゃ駄目。

 だってこれは、最後の手段なのだから。

 いつまでも滴り続けると思った血の音が止む。

 ずるり。

 べちゃん。

 とても大きな水音が鳴る。まるで大きな男が水たまりに突っ伏したかのように。

 そう。血だるまさんが自分の血の池に突っ伏したのだ。ふらつき、足を滑らせ転んだのだ。

 しばらく静寂が続く。さっきまでの恐ろしい音が何も聞こえなくなる。

 がたがたふるえながらじっとする。やがて血の匂いが消える。気配が消える。

 私はそっと目を開けた。もしも目の前に血だるまさんがいたらどうしよう。そう思いながらもおそるおそる目を開いた。

 そこには何もいなかった。

 助かった。

 全身の力が抜ける。ぐったりと地面に横たわる。

 泣けてきた。安心して、気がゆるんだら泣けてきた。

 助かった。助かった!

 私は泣きながら笑っていた。はじめて感じた死の恐怖。それにあらがい乗り越えたことを誇らしく思った。

 うれしかった。幸せだった。生き延びたことがすごく幸せだった。生きていられる幸せをはじめて知り、感謝した。

 血だるまさんは血を滴らせる。目を瞑っている間ずっと。

 しかしそれは永遠だろうか。お化けだから永遠かもしれない。でももしそうでなかったら。その出血量に限界があったとしたら。立っていられなくなる。倒れる。転ぶ。死ぬ。

 血だるまさんに遭ったらずっと目を瞑っていればいいのだ。その動いている姿を見ようとしなくていい。恐怖に負けて目を開けてしまわないように耐え続ければいいのだ。血だるまさんが出血多量で死ぬのを待てばいいのだ。

 お化けは死なない。消えるだけ。またどこかに現れるだろう。でも同じ人間の前には二度と現れない。だからその人間にとっては死んだことになる。

 私は助かった。もう二度と血だるまさんに遭うことはない。

 私は生まれてはじめて、腹の底から大笑いした。それほど、生き延びた喜びは大きかった。生きている幸せは大きかった。

(完)

posted by 二角レンチ at 13:35| 短編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月02日

妻に殺される夢を見る

妻に殺される夢を見る

 俺は悪夢にうなされ目が覚めた。またあの夢だ。妻に殺される夢。優しい妻がそんなことをするわけがない。なのに時々、この悪夢を見てしまう。

 汗びっしょりで目が覚めると、となりで妻がすやすや寝ていた。その寝顔はとても穏やかで、悪夢で見た凶悪な笑い顔とは似ても似つかなかった。

 妻の髪をなでる。はあ。まったく。なんでこんな悪夢を見てしまうのだろう。

 妻はとても優しい。笑顔が美しい。結婚生活は順調だ。何の問題もない。

 妻の大きなお腹をなでる。もうすぐ産まれる。俺たちの子だ。はじめての子供が産まれる。すごくうれしい。

 ときどき同じ悪夢を見る。妻が笑いながら俺を殺す夢。なぜそんな夢を見るのだろう。優しい妻は絶対にそんなことをしない。俺にはわかる。俺たちは一生一緒にいる。俺たちが別れることなんかありえない。ましてや殺したり殺されたりするはめになるなんて絶対にありえない。

 それは絶対だ。だから妻が俺を殺すことなんてありえない。こんな悪夢をいくら見てもそれが実現することはない。

 妻とずっと一緒にいる。誓いあった。愛し合った。離れることなんて考えられない。まして殺されることなんてあるわけがない。

 俺は何が不安なのだろう。夢は不安を映す鏡だ。俺は知らずに妻に不安を抱いているのだろうか。初めての子供を育てることに不安を感じているのだろうか。

 わからない。不安がないわけではないが、こんな悪夢にうなされるほど思い詰めていることはない。

 夢はいろいろな不安や願望が形を取る。必ずしもそのまま出てくるわけではない。だから妻に殺されるという悪夢は、そのままではなく何か別のことを暗示しているのだろうか。

 いったいなんだろう。わからない。でも害があるわけではない。毎晩悪夢にうなされるならともかく、時々思い出したように見るだけだ。普段はすっかり忘れているくらいだ。

 気にするようなことではない。病院に行くほどのことではない。

 もちろん妻には言えない。夢とはいえ、妻が俺を殺すことなんて言えるわけがない。

 妻は出産を控えて大事な時期だ。不安にさせたくない。

 妻のほほをなでる。美しい。愛おしい。

 妻のことがずっと好きだった。結婚前からもう好きで好きでたまらなかった。

 今こうして、結婚して、子供も授かった。俺はとても幸せだ。妻と結婚できて俺は最高に幸せだ。

 こんな悪夢くらいがなんだ。うなされて目が覚めるだけ。どうってことない。

 もう忘れよう。とっとと寝てしまおう。俺は妻の寝顔に軽くキスをしてからまた横になった。

 気にしないことだ。でも眠る前のまどろんだ、ぼやけた頭でさっきの悪夢を思い出していた。


 毎回ほぼ同じ内容だった。妻が笑いながら俺を殺す。俺は縛られている。どうしてかわからないが、目が覚めたら縛られていた。

 どこなのかわからない。どこかの建物の中らしい。古くさい臭いがする。使われていない建物らしかった。

 電気もない。明かりは懐中電灯だけ。懐中電灯がいくつか転がっている。妻が一つを持って俺に向けている。

「お目覚め? よく眠れた?」

 悪夢なのによく眠れたか。ここは何度聞いてもジョークに思える。

 俺は何か言おうとするが言えない。口を布でふさがれている。うめくしかできない。手足が縄で縛られている。

「言いたいことはたくさんあるけど、言わなくてもわかるわよね」

 俺自身に心当たりはない。これは夢だからつじつまがあわないのだろう。

 それとも、俺は何か不安を抱いているのだろうか。妻に詰問されるような何かを思い出そうとして思い出せず、だから悪夢を見ることで思い出そうとしているのだろうか。

「実はね、私、子供ができたの」

 ぎくりとする。これだけ聞くとまるで妻が他の男と寝たことで身ごもったように思えるからだ。でも次のセリフを何度も夢で聞いているから心配はいらない。

 妻は俺の目をのぞき込んで一言一句かみしめるように言う。

「もちろんあなたの子よ。私はあなた以外とは寝ていないもの。そうでしょ?」

 当然だ。俺たちは互いに愛し合っている。妻が俺以外の男と寝るわけがない。

「私ねえ、あなたのこと愛しているわ。本当よ。どんなことがあってもあなたのことを本当に愛していた」

「でももう駄目。子供ができてしまったもの。だからあなたを殺すしかないの」

 ここはいつも意味がわからない。俺たちの子供だ。うれしいことだ。それがなんで、俺を殺す理由になるのだろう。

 俺が子供を望まないとでも言うのだろうか。そんなことはない。俺はずっと子供が欲しかった。こんなにうれしいことを喜ばないはずがない。

 俺が妻の浮気を疑うとでも言うのか。そんなことはない。妻は俺としか寝ていない。それは間違いない。間違いなく俺の子だ。だからその子供ができて怒るようなことは何もない。

 所詮夢だ。子供ができたことで妻が俺を殺す理由はまったく無い。

 妻は包丁を取り出して、俺をざくざく刺しはじめた。

 はじめは腕や足に包丁の先を突き立てていく。深くはない。血が出ている。

 夢だから痛みを感じない。夢の中の俺は痛みにもがいているが、俺は痛くもなんともない。

 妻が笑っている。いつもぞっとする。妻は俺の前でこんな顔をしない。こんな恐ろしい笑顔を俺に向けたことはただの一度もない。

 夢の中では見たことのないものだって見ることはある。見たことのないお化けや怪物を見ることはある。だから妻の見たことのない表情だって見てもおかしくない。

 妻はぶつぶつと俺への恨み言をつぶやいている。もちろん俺には覚えがない。俺がしたことのないことばかりだ。妻はそれに苦しめられてきたと言っている。

 所詮夢だ。俺のしたことのない罪で俺が妻に裁かれている。こんなことが俺の身に起こったはずはないしこれからも起こらない。俺は妻とずっと一緒にいる。俺は妻を愛するし、妻も俺を愛する。それが全てだ。殺されるなんてあるわけがない。

 妻は血塗れの包丁を自分のお腹に向けて言う。

「ああ。あなたにこんなにひどいことをして。私はあなたの妻失格だわ」

「それでも、私を愛してくれるわよね。二度とこんなことをしないわ。だから私を愛してくれるわよね」

「あなたがいけないのよ。私を裏切ったからこんな目にあうのよ」

「私を裏切ったから包丁でめった刺しにしてやった。次に裏切ったら産まれてくるこの子をめった刺しにしてやるわ」

「あなたにそれは耐えられないわよね。私たちの愛する子ですもの。自分が刺されるよりも何倍も辛いでしょうね」

「愛しているわ。あなたを愛している。だからずっと一緒よ。どこへも行かないで。私たち、一生離れられないわ」

 妻はそう言って俺にとどめを刺した。

 これはどういうことだろう。たぶんこうではないかと推測できる。

 男は妻が妊娠中に浮気することが多い。妻を抱けないから他の女を抱こうとするのだ。

 俺はそんなことはしない。でも俺も男だ。妻以外の女を抱くつもりはないが、自分で確信が持てないのではないだろうか。

 そんな不安が夢に出る。妻を裏切って、浮気しやしないかと不安だから、裏切ったら妻に殺されるという夢を見るのだ。

 これはつまり、警告だ。不安だから、自分に夢で警告しているのだ。

 これはありがたい警告と受け止めるべきだ。妻を裏切らない。浮気しない。不安に揺らぐ自分を夢に見ることで警告しているのだ。

 だからそういうことだと思おう。それ以上の何も考えてはいけない。

 これは夢だ。所詮夢なんだ。妻と一緒にいる。それだけで絶対に起こり得ない夢なんだ。

 もう眠い。まどろみながら夢について考えるから混乱するのだ。起きたらきれいさっぱり忘れているさ。

 夢とはそういうものだ。起きたら忘れる。覚えていない。それが夢なんだ。悪夢といえど、起きたら忘れているに違いない。

 忘れる。忘れたい。忘れよう。

 これは夢だ。あれは夢だ。実現しない夢なんだ。

 俺は自分にそう言い聞かせてようやく夢も見ないほど深い眠りについた。


(完)

あるいは読まない方が幸せなあとがき
posted by 二角レンチ at 10:40| 短編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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