2012年12月17日

死後の砂丘

死後の砂丘

 さらさらと砂がこぼれ落ちる。私が沈んでいるこの砂丘の砂がこぼれ落ちて消えていく。

 身体はまったく動かない。死んでいるから当然だ。でも見える。見渡せば一面、黄金色の砂丘が広がっている。

 空は真っ黒。砂は黄金。その二つの色しかない。

 これが死後の世界か。それともまだ旅立っていないのか。この身体は肉体なのか。魂の形なのか。

 何もわからない。自分が誰だったのかもわからない。どうやって死んだのかもわからない。まだかろうじてわかっているのは自分で命を絶ったということだけだ。

 私は砂丘に沈んでいる。身体が埋もれている。顔は露出している。息苦しくない。息が出来ないのに息苦しくないというのがわかる。きっと埋もれていたら息苦しいに違いない。

 指一本動かせない。まぶたを閉じることも出来ない。目が動かないのに見渡せる。どこまでも続く広大な砂丘の砂が、こぼれ落ちて消えていく。

 砂時計の砂が落ちるように、こぼれていくのがわかる。身体が埋もれている砂がこぼれるだけではない。砂丘全体の砂がさらさらと落ちていくのがわかる。

 不思議な感覚だ。生きている人間とは違う知覚。動けないのに感じられる。知ることが出来る。

 自分が何者なのか。どうやって死んだのか。どうして死んだのか。思い出せないのはなぜか。

 思い出せないのではない。失われている。どうして失われたとわかるのか。わからない。でもわかる。知覚出来る。

 こぼれ落ちて失われた砂は記憶だ。私の記憶の粒がこの砂なのだ。この広大な砂丘は私の記憶の粒だ。私の人生全てがここにある。

 死んだら失われる。こぼれ落ちて消えていく。死後の世界に持っていけない。きっと全部こぼれ落ちて、私には何一つ残らない。

 温かい砂。やわらかい砂。この細かい粉雪のような砂に埋もれているととても気持ちいい。感じることが出来ないのに気持ちいいと感じる。知覚出来る。浸ることが出来る。

 きっとこの砂がこぼれて消えたあとはとても寒いのだろう。この身体だか魂だかを包む温かい物が全て無くなるのだ。きっととても寒くて辛いのだろう。

 辛いと感じるだろうか。何も感じないこの身体。でも知覚出来る。知ることが出来る。思考でのみ感じる。感覚でなく知ることが知覚。思考することが感じるということ。肉体の感覚しかない生きている人間とは違う。

 全て知覚出来る。知ることが出来る。だからこの砂の粒が私の生前の記憶で、それがこぼれて失われていくことがわかる。

 どうしてこぼれていくのだろう。失われていくのだろう。死後の重石だからか。死後に持っていけないものだからか。自ら命を絶つような、辛い記憶はいらないからか。

 違う。わかる。ここには辛い記憶は一粒もない。

 ここにあるのは全て大事な記憶。温かい記憶。いい思い出。よかったこと。幸せ。

 いい記憶しかない。大事な物しかない。かけがえのない物しかない。手放したくない物しかない。

 それが失われていく。恐怖を感じることが出来ないのに知覚出来る。それを失いたくないと叫べないのに絶叫する。

 知らなくても知覚出来る。だからこの粒が大事な記憶だとわかったように、ここがどこか知ることが出来る。

 ここはやはり死後の世界で、私の身体は肉体ではなく魂の形なのだ。肉体の感覚は無い。ただ知覚することが出来る塊。

 この広大な砂丘が私なのだ。私の全て。私は死後、この世界にただ独り。肉体なんてちっぽけな世界ではない。どこまでも果てしなく広がり、決して誰とも交わることがない。

 それが永遠。死後は永遠に続く。

 人は何のために生きるのか。知覚出来る。生きている間に知ることは出来ない。死んで初めて知ることが出来る。

 生きているのは死後の砂丘に大事な記憶の砂粒をせっせと貯める作業なのだ。嫌な記憶は貯められない。生きているうちにこぼれ落ちて、死後の砂丘に持ち込めない。

 死後の砂丘に持ち込めるのは大事な記憶だけだ。温かい記憶。すばらしい記憶。よかったこと。幸せを感じたこと。そのたびに記憶の砂粒が生まれ死後の砂丘に貯まっていく。

 ここに無いから知覚出来ない、いやなことがたくさんあった。そのいやなことに耐えきれなくて、私は自ら死を選んだ。どれだけ苦しみどうやって死んだかわからない。そんな辛い記憶はここには無い。

 生きているうちにどれだけ苦しくても、死んだらそれに苛まれることはない。死後は楽園だ。温かい幸せな記憶に包まれ永遠に浸り、ずっと幸せでいられる。

 それがこぼれ落ちる。消えていく。

 恐ろしい。感じることが出来ないのに知ることが出来る。

 私の温かい幸せがこぼれ落ちる。さらさらとこぼれ消えていく。

 やがて全て失われる。この広大な砂丘を埋め尽くすこの温かい記憶が全て失われてしまうのが知覚出来る。

 本当なら生きているうちにせっせと貯めた幸せに包まれて、死後は永遠に幸せでいられるはずだった。

 でも失われる。自らの生をまっとうせず、命を粗末にして投げ出した者に死後の幸せは許されない。

 これは罰なのだ。最後まで必死に生きず、死を選んだ愚か者への罰なのだ。

 地獄があるわけでも業火に焼かれるわけでも無い。死後には幸せしかない。その幸せが全て失われる。それが死後の世界で最も辛い罰となる。

 恐ろしい。あまりにも恐ろしいことだと知覚出来る。知ることが出来る。死後の世界において唯一にして最大に恐ろしいことは、たった一粒の幸せすら無い空虚な世界で永遠に過ごさねばならないことなのだ。

 死んで初めて知ることが出来る。人はどう生きるべきなのか。

 生きている間にせっせと幸せを得て死後の砂丘にその粒を貯めていく。それが生きる理由。

 死後に辛いことやいやなことは持ち込めない。それは生きている間のちょっとした障害にすぎない。何とかやりすごし、その隙をついてせっせと幸せを貯めないといけない。

 不幸はその場限り。幸せは永遠。人は少しでも多く幸せを得て貯めるために、必死で生きなければならない。

 幸せを得ようとしないなんて損するだけだ。一粒でも多く幸せを貯めないとただの損だ。

 幸せの一粒一粒が、永遠の幸せとなる。永遠の財産だ。金や物ではない。生きている間には決して、ささいな幸せが貴重な一粒だということがわからない。

 人は必死に幸せを得続ける。天寿を全うし、早かろうと遅かろうと人生全てを必死に生きて死ぬ。

 そうすれば永遠の幸せが得られる。死後の砂丘で幸せの粒に埋もれて永遠に幸せに浸っていられる。

 だが必死に生きて小さな幸せを貯めておかないと、死後の砂丘は築けない。浅くわずかな幸せの粒に横たわり、わずかな幸せを細々と味わって切なく過ごす。

 人生を途中で投げ出したら最悪だ。全て失われる。命を粗末にし、死後の幸せを貯めることを放棄したのだ。途中で下りたレースでは、ゴールに着けない。ゴールで得られるはずのものはただの一粒も得られない。

 生きるのは死後の幸せを貯めるため。途中で下りたら全て没収される。それを知っていれば、どんなに辛くても生きていただろう。耐えられない苦しみがあれば、死に物狂いで立ち向かうか、全力で苛まれない所まで逃げ出すか。いずれにせよ、自ら死を選ぶのはありえない。それは選択肢にはなりえない。

 死後は永遠。広大な砂丘に独り。ここでただの一粒も幸せが無く過ごさねばならない。

 幸せは生きている間にしか貯められない。死後に貯めることは出来ない。死後は浸るだけ。幸せに浸るか絶望に苛まれるか。このどちらかしかない。もう必死にあらがうことも逃げ出すことも出来ない。

 ああ。私はなぜ死んだのだろう。立ち向かえないほど恐ろしい苦しみがあっても、全力で逃げ出すことは出来たはずだ。最後まで全力で、死に物狂いに逃げ出して、その果てに追いつめられ死んだとしても、それは最後まで必死に生きたことになる。そうなればきっと、この幸せの粒は一粒もこぼれることなく私は永遠に浸っていられたのだ。

 逃げることだって戦いだ。立ち向かうのと同じぐらい必死に戦うことなのだ。私はそれをせず、その努力も苦労もせずに楽に逃げることを選んだ。必死に逃げるのとは違う。逃げることすら放棄したのだ。

 その罰がこれだと知っていたら、きっと死を選んだりはしなかった。私はまだまだ戦えた。まだまだ必死に逃げることは出来たはずなのに。

 どうして死を選んでしまったのか。わからない。不幸なんて死後の世界にたった一粒すら持ち込めない。一粒にすらなりえないちっぽけな物なのに。その程度の、取るに足らない物から逃げることは出来たはずだ。立ち向かえないほど恐ろしい不幸でさえ、死ぬまであらがいながら全力で逃げ続けることは出来たはずだ。それすら面倒くさがってしないのだから罰を受けて当然だ。

 生きている間はきっと、いいことなんて何も無い人生だと思っていただろう。死んで初めて知ることが出来る。この広大な砂丘にひろがる膨大な幸せの粒。私が一生かけて貯めた財産。

 一つ一つは小さな粒にすぎない。粒も積もれば丘となる。私はこんなにもたくさんの幸せを得ていたんじゃないか。生きている間にこんなにもいいことがあったんじゃないか。

 こんなにたくさん幸せなことがあった。私を幸せにしてくれた人がたくさんいた。私を不幸にした人もたくさんいただろう。でもそんなものは取るに足らない。一粒にすらならない。

 人を幸せにし、人に幸せにされる。そうして互いに幸せの粒を貯め続ける。それが一番いい生き方。死後の得を知っていれば、生前の損得なんてちっぽけすぎて話にならない。小さな幸せを必死に集める。人を幸せにし、自分も幸せにしてもらう。それには十分過ぎるほどの見返りが約束されている。損だから親切をしないだとか、得だから悪さするだとかはまったくもって損なのだ。

 知覚出来る。知ることが出来る。きっと生きているうちに悪いことをするたびこの幸せの粒はこぼれて消える。悪いことをするほど失われてしまう。でもそのあとでいいことをしていればだれかにもよくしてもらえ、きっと幸せの粒を貯めなおすことが出来る。

 悪いことだけしていれば、自ら死を選ばなくても死後の砂丘は空っぽになる。でも心を入れ替えいいことをしていけばまた幸せの粒は貯められるのだ。

 私は、小さいことはともかく人を不幸にしたわけではない。私を自殺に追い込んだ連中がしたほどひどいことをしたはずが無いのだ。

 なのにどうして全て失われるのだ。自殺はそこまで大罪なのか。生きるレースを途中で下りたから全て没収なのか。それが悪いことをしたあと償いをする人間よりもひどい罰を受けるべきなのか。

 おそらく違う話なのだろう。悪いことをして幸せの粒を失うのと、償いや善行をして幸せの粒を貯めるのとは違うことなのだ。

 きっと悪人は貯めていた幸せ以上の負債を負う。砂丘の底に穴が空き、せっせと貯めてもこぼれ続ける。

 でも生きている限り、幸せを貯め続ける限り、いつかきっとその穴の中をいっぱいにし、再び砂丘に幸せの粒を貯めて増やすことが出来るようになる。

 それが生きるということ。悪さするたび負債を負うが、生きている限りそれを償い切ることは出来るかもしれない。

 それすら放棄したのだ。その苦しみを、苦労を、努力を、したがらなかった。だから自殺はもっとも重い罪となる。生きている間に人を幸せにすることを一切やめてしまったのだから。人を幸せにしないことは一番重い罪なのだ。

 広大な砂丘にあふれていた幸せの粒が落ちていく。消えていく。失われていく。永遠に。

 全てがこぼれ落ち、ただの一粒も残らなかった。この何も無い場所で独り、永遠に幸せ無しで過ごさなければならない。

 全てこぼれ落ちたあと、最後にこぼれたのはたった一粒だけ残っていた涙だった。


(完)

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2012年12月04日

マッスル(3)お会計はマッスルで

マッスル(3)お会計はマッスルで

お会計300マッスルになります。

ボオンッ!

お釣り200マッスルになります。

ボボボオオンッ!


(完)

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2012年12月01日

三人の殺人鬼が宿に泊まった

三人の殺人鬼が宿に泊まった

 殺人鬼が宿に泊まりにきました。

「俺は人を殺したくてうずうずしているんだ」

 宿屋の主人はふるえあがりました。

 殺人鬼が宿に泊まりにきました。

「俺は人を殺したくてうずうずしているんだ」

 宿屋の主人はふるえあがりました。

 殺人鬼が宿に泊まりにきました。

「俺は人を殺したくてうずうずしているんだ」

 宿屋の主人はふるえあがりました。

 殺人鬼は人を殺したくてたまりません。

 だからナイフを持って部屋を訪れました。

 殺人鬼が一人殺されました。

 殺人鬼は人を殺したくてたまりません。

 だからナイフを持って部屋を訪れました。

 殺人鬼が一人殺されました。

 殺人鬼は人を殺したくてたまりません。

 だからナイフを持って部屋を訪れました。

 殺人鬼が一人殺されました。

これはブラックジョークです。意味がわからなかった方はこちらをご覧ください。
posted by 二角レンチ at 09:15| 短編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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