2013年03月11日

天使の試練(1)プロローグ

天使の試練(1)プロローグ

 この世には神も悪魔もいる。

 今まで信じていなかったけれど、目の前にいたら信じざるを得ない。

 そして天使もいる、らしい。まだ目にしたことが無い。でも神である男は言ったのだ。私は天使になるのだと。試練を乗り越えて天使になるべき人間だと。

 ただの人間。ただの女。ただの処女。それが神の目にとまり、その妻となるべき天使に選ばれた。

 それはうれしいことなのだろうか。喜ぶべきことなのだろうか。ドキドキすることなのだろうか。

 そんな幻想的で甘美なものであるはずがない。こんなに非道な男が神だなんて。私のお父さんとお母さんをたてにとり脅迫してくる卑劣な男の妻になれだなんて。受け入れられるわけが無い。

 それでもやるしかない。私が生きのびるために。再びお父さんとお母さんを取り戻すために。

 天使になる試練。これを乗り越え天使になったら私はもうお父さんやお母さんと一緒にはいられない。この憎しみすら抱く男の妻になる。拒否は許されない。

 それでも、このままお父さんとお母さんを見捨てることは出来ない。私のせいでまるで違う姿に変質したお父さんとお母さんを元に戻すには、私が天使の試練を乗り越え天使になるしかないのだ。

 だからやる。絶対成し遂げる。この卑劣な神を名乗る男の妻になるのは死んでも嫌だ。でもお父さんとお母さんのためなら何でも出来る。家族だから。好きだから。大事な人だから。見捨てるなんて出来ない。どのみち私の命もかかっているのだ。選択の余地は無い。

 異形の悪魔が迫ってくる。私は、私が天使の力で変質させ化け物にしてしまったその人に、涙をこぼし嗚咽しながらそれでも強い意志を持って命じる。

「お願い、お母さん……! 私を助けて。あの悪魔を倒して」

 お母さんだった化け物は、私の言葉を理解しているように、悪魔に向かって突撃する。

 それを見守りほくそ笑むのは、とても美しく若い男だった。私のお父さんの身体を乗っ取り変質させた、神を名乗る男。

 私はその男をにらみ、でも前を向き直り、戦いに集中する。

 天使になる試練。神に見初められた十八歳で純潔の乙女が天使に変質するまでの間、そうはさせまいと襲い来る悪魔たちをことごとく退け、完全な天使に変質すること。

 神を名乗る男は私が天使の試練を乗り越えればお父さんとお母さんを元の姿に戻してくれると言った。

 どこまで信用していいのかわからない。まるででたらめな嘘かもしれない。でもお母さんが私の天使の力で化け物に変質したのも、悪魔が襲ってくるのも、お父さんが神を名乗る男の姿に変質したのも事実だ。

 疑おうが何だろうが、今は選択の余地は無い。今この場をみんなで生き延びる。目の前にいる悪魔を倒す。今はそれだけに集中するんだ。

 涙が止まらない。混乱も、悲しみも、制御出来ない。それでも私は涙をぐしぐしと拭いながら、戦いに集中しようとした。

posted by 二角レンチ at 11:17| 天使の試練 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月13日

天使の試練(2)悪魔 1

天使の試練(2)悪魔 1

 その日はなかなか寝付けなかった。

 受験が終わり、勉強ばかりの毎日が終わった。ぽっかりと心に穴が開いたようだった。

 勉強が好きだったわけではない。むしろ嫌で嫌でたまらなかった。でもそれだけの毎日を一年も過ごしてきたのだ。急にしなくてよくなっても、心や身体がそれにすんなり対応出来るわけがない。いつもならまだ頭を痛めながら勉強に励んでいる時間だ。寝られるわけもないか。

 リストラされた社員ってこういう気持ちなのかなあ。嫌だなあ。こんな気持ち味わいたくなかったよ。

 私はベッドから出てカーディガンを羽織る。寒い。夜は冷える。台所でホットミルクでも飲もう。

 いつもなら夜食を食べる時間だ。健康に悪いけどお腹が空く。何か食べたいなあ。

 私は部屋を出て、階段を下りて台所へ向かう。その途中、寒さに腕を組んで縮こまりながら考える。

 学生生活の中で、ただの一度も彼氏が出来なかった。この一年は受験勉強のためそれどころではなかったが、終わってみれば恋愛経験の無い学生生活は、楽しいこともたくさんあったはずなのに全てがひどく空しく思えた。

 色が足りない。ドキドキ恥じらうピンク色の思い出が一つも無い。色気とはよく言ったものだ。色気の無い人生はまったく色の無いモノクロの思い出に思えて仕方が無い。

 胸が小さいのがいけないのかな。

 そんなことは無い。巨乳とはいかないけれどそこそこはある。小さすぎるというほどではないはずだ。

 自分で言うのも何だが、顔もかわいい方だと思う。そりゃあ年齢のわりには童顔かもしれないけれど、敬遠されるほど幼く見えるわけではない。

 どうして、私は男の子に人気が無かったのだろう。ただの一度も告白されなかったのだろう。

 興味が無いわけではない。でも特別好きに思える男の子はいなかったから、私から告白したことは無い。もっとも、気になる男の子がいたとして気弱な私に告白出来たかどうかはわからないが。

 だから男の子から告白されるのを待っていた。でも誰も私に告白どころか、話しかけてもこなかった。クラスメイトとして多少話をする程度。仲良くなることはなかった。男女のグループで遊びに行っても、男の子とくっつくのはいつも私以外の女の子ばかり。私だけ、カップルにならなかった。

 友達がデートした話とか、エッチした話とかを顔を真っ赤にして聞くばかり。友達の中で私だけ、そういう経験がまったく無かった。

 みんな人それぞれだから焦らなくてもいいとか、適当な男と初体験をして後悔しているとか言って慰めてくれるが、幸せそうだった。男の子と付き合うのは楽しいし、失恋して泣いても次の恋をすればまた笑顔に戻る。恋って素敵だ。楽しいものだ。エッチは痛いけれど、慣れればすごく気持ちよくって、一人でするのとまるで違う幸せだというのは、蕩ろけながら話す表情を見ればわかる。

 うらやましい。私も男の子と付き合いたかった。痛いのは怖いけれどエッチもしたかった。もう大学生になるのに処女なんて私だけじゃないだろうか。そのせいで大学生活で友達出来なかったらどうしよう。

 勉強一色だった生活が突然終わり、私の頭の中は恋愛が出来なかった後悔で一杯だった。ときどきは、一人ですることはしていたが、それでも禁欲に近い状態を一年近くも続けたのだ。その重圧から解放されて、性欲があふれるのは仕方の無いことだった。

 眠れないのは体力が余っているからかな。ミルクを飲んだら、部屋で一人でしようかな……

「ショウコ、どうしたんだこんな時間に」

 突然の声にびくりとする。

「はへ、お、お父さん?」

 素っ頓狂な声を上げる。ひどくあわてた。だってエッチなことを考えているときにお父さんに出くわすなんて。

「あ、あの、眠れなくて、ホットミルクを飲んだらよく眠れるっていうから、飲もうかと思って」

「そうか。父さんもなんだか眠れなくてな。ちょっと一杯飲もうかと思って起きてきたんだ」

「へえ、珍しいね」

 私はお父さんについて台所へ向かった。

 お父さんの背中は大きい。毎日工場で朝早くから働いている。だから明日は休みだが、いつもはこの時間には疲れて寝てしまっている。

 台所では、お母さんが熱燗とつまみの用意をしていた。

「あらあらどうしたの。食いしん坊さん。匂いに釣られて来ちゃったのかな?」

「そ、そんなんじゃないよ。でもいい匂い。私も、ちょっとつまんでいい?」

「いいわよ。じゃあもうちょっと作るわね」

 お母さんは冷蔵庫から食材を取り出すと、手早く料理を作っていく。いつもながら見事な手さばきだ。春休みの間に料理を教えてもらおうかな。今までは受験勉強を理由にやらなかったけれど、そろそろ料理下手も直さなくちゃ。彼氏が出来たときのために。

 私はカップにミルクを注ぎ、レンジで温める。テキパキ料理する母とレンジでチンするだけの娘。差は歴然だった。

「わあ、何だか宴会みたいだね」

「ははは。そうだな」

 みんなで席に座る。テーブルには簡単だが温かい手料理が何皿も並んでいた。

「作り過ぎちゃったわね。何だか変だけど、今作っておかないともう食べてもらえないような気がして」

「ははは。母さんの手料理はおいしいんだから、これからも毎日食べるよ」

「うれしい。あなたったら。うふふ」

 二人は目の前でいちゃいちゃする。いつものことだ。この歳でまだラブラブなのはすごいことらしい。夫婦円満。私もこうしていつまでも愛し合える人と結婚したい。まあ年頃の娘の前でもいちゃつくのだけはやめてほしいが。

「はいあなた、あーん」

「あーん」

 やーめーてー。うつむきながら心の中で叫ぶ。

 昔ラグビー部だったというお父さんは身体も顔もごつい。なのにお母さんの前でだけ、いかつい顔が柔和に緩む。

 それだけ好きだということだ。

 私にとって、両親は理想のカップルだった。ほとんど容姿だけで付き合うかどうか決める同世代の子たちの恋愛よりも、私はこういう心まで愛し合える恋愛がしたかった。

 もしかして、理想が高すぎるから男の子と付き合えないのかな。いやいや、こんなこと誰にも言ったことはないし。お父さんを見ているから私は容姿にこだわらない。どちらかと言えば顔がよくてもひょろひょろしたのより、お父さんみたいに顔も身体もゴツい方がタイプだし。

 普段から会話の多い方の我が家だが、この時はみんなでいつもよりたくさん話をし、笑い合った。なぜかみんな、話さずにはいられないようだった。

 最後の晩餐。

 なぜかそんな言葉が頭をよぎり、不安にかられた。

 私が寝付けなかったのは、今日が最後だと予感したから。

 お母さんが料理をたくさん作ってしまったのは、今日がみんなで食べる最後の食事だから。

 お父さんがいつもと違い眠れなかったのは今日が最後の家族の団らんだから。

 どうしてか、そんな予感が頭を走り、つららで背骨を貫かれたような寒気がした。こんなこと、以前にあったはずはないが、デジャヴを覚える。最後だからみんな饒舌になる。パーティーが終わりに近づくと、終わりたくないから話を途切れないようにするあの感じに似ていた。

 私だけではない。みんな笑っているが、同じ予感、同じ不安を感じているようだった。

 そんな予感が的中するわけがない。でも人間だって動物だ。危険を察知する能力が完全に失われたわけではない。命を脅かす脅威にさらされているときは、不安を覚え眠れなくなるぐらいのことはあるのだ。

 べたん。

 バケツの水を壁にぶちまけたような音。そして振動。小さいけど立派な一戸建て全体が震えた。

「何だろう。地震かな」

 お父さんがきょろきょろする。

「余震が来るかもしれない。とりあえず、テーブルの下に隠れていなさい」

 お父さんに言われて、私とお母さんはイスを引いてテーブルの下に潜る。

「大丈夫だよね」

 私はお母さんに聞く。

「大丈夫よ。きっとただの小さな地震だわ」

 お母さんはいつも、私を安心させるために笑顔を見せる。この笑顔にどれだけ救われてきたことか。

 あれ。どうしてだろう。言いようの無い不安。これがお母さんの笑顔を見る最後のような気がした。

「さっきの音は何だったんだろう。泥棒とかじゃないだろうな。明かりのついている家に忍び込もうとするとは思えないが、ちょっと見てくる」

「あなた、危ないわ。そんなの行かない方がいいわ」

「大丈夫だよ。すぐ戻る」

「あなた、行かないで。そばにいて。泥棒だったら逆に危険だわ。お願いだから行かないで」

 お母さんはなぜか必死になる。私と同じように、得体の知れない不安を感じている。

「……すぐ戻るから。心配するな」

 お父さんは険しい顔で私たちを見つめ、そして台所を出ていく。家族を守る強い決意を感じる。危険があるならなおさら、それを確認し家族を守らなければならないと考えているようだ。

「あなた。ああ……」

「お母さん、お父さんなら大丈夫だよ。とても強いもの。泥棒の方がお父さんを見たらビビって逃げちゃうって」

 いつもなら、慰められたり不安を取り除かれるのは私の方なのに。今日のお母さんはいつもと様子が違う。私はテーブルの下で、お母さんをぎゅっと抱きしめる。

 お父さんが台所を出て一分ぐらい経つ。お父さんが家の中を歩き回り確かめる足音だけがわずかに聞こえる。

 二分、三分、四分、五分……

 慎重に見て回るにしても、こんなに時間がかかるものだろうか。玄関を開けた気配は無い。お父さんは家の中にいるはずだ。

 だんだん足音が大きくなる。スリッパのぺたぺたという音が、ドスドスと廊下を蹴るように踏みしだく音になる。お父さんは身体が大きいが、こんな乱暴な歩き方はしない。

 ドスドスがズシンズシンと重たい音になる。まるで恐竜が歩いているようだ。家中が震える。

「お、お母さん、何これ、お父さんなの? ねえ」

「あなた、ああ。どうして。わからない。わからないわ」

 私とお母さんは涙を浮かべながら抱きしめ合う。怖い。お父さんはこんな足音を立てない。じゃあこれは何だ。誰の足音だ。お父さんはどうなったのだ。

 べたん、びしゃっ、べしゃっ。

 最初に聞いた、バケツの水をぶちまけるような音が響いた。

「ひいっ」

 私は小さな悲鳴を上げる。何かわからないが、その音は家の外ではない。家の中で響いた。

「何か、いる」

 誰か、ではない。人間の出す音ではない。

 ずるずる。びちゃびちゃ。ぼたぼた。

 何かの水音がする。バケツの水を、いや泥をぶちまけ続けるような音。泥の塊が歩いているならこんな音がするだろうか。

「お、お母さあん……」

 私は恐怖で泣き出した。もう限界だ。パニックになる。でも悲鳴を上げるわけにはいかない。家の中にいる得体の知れない何かに気付かれる。

 ずるる、べちゃべちゃ、ずるるるるっ、どすん。

 泥の塊が這いずり、二階の階段からずり落ちて一階に着地した音がする。

「ひいいい、いや、お母さん、お母さん、何か、何かが、来るよ。二階からこっちに向かってくるよ」

 テーブルの下に隠れていても見つかる。逃げないと。でも震える手足は力が入らない。

「あなた。ああ。あなた。どうしたの。どこに行ったの。そばにいて。ああ」

 お母さんもパニックになっている。震えながらずっとお父さんの心配をしている。

「お母さん、逃げよう。きっとお父さんは外にいるよ。だから私たちも外に行こう」

 玄関のドアを開けた音はしなかった。でもあの乱暴な足音や水音に紛れて聞こえなかっただけで、お父さんは外に出たのだと思いたい。

 だってそうでないなら、お父さんが私たちの所へ戻ってこないわけがない。もし戻れないのだとしたら、この泥の水音を出す何かにお父さんは襲われてしまったことになってしまう。

posted by 二角レンチ at 12:40| 天使の試練 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月14日

天使の試練(3)悪魔 2

天使の試練(3)悪魔 2

 お父さんが死ぬわけが無い。きっと無事に決まっている。無事ならきっと外にいる。だから私たちも外に出ればお父さんと合流出来る。

「行こう。お母さん。今ならまだ間に合う。音からするとあれの動きはのろい。まだ玄関から出られるよ」

 私は立ち上がる。そしてうずくまり泣いているお母さんを引っ張り上げる。

「あなた。ああ。どこにいるの。早く、早く帰ってきて。いつもならすぐ駆けつけてくれるのに。どうしたの。あなた……」

「お母さん、しっかりして。お父さんはきっと外にいるよ。私たちも早く外に行こう」

 いつもなら恐怖に取り乱して動けないのは私の方だ。でも今はお母さんがパニックに陥っている。だから逆に冷静になれる。私がしっかりしないと。いつも助けてもらっているお母さんを、今は私が助ける番だ。

「ほら、早く。う」

 廊下に出ると、音から想像した通りの汚泥が階段の下にぶちまけられていた。不思議と匂いはしない。泥のようで泥ではない。蛭のようで蛭ではない。牛ほどもある肉の塊が泥にまみれている。いや、こいつ自身の体液のようだ。

「うっぷ」

 匂いはしないがそのおぞましい造形は吐き気を催させる。玄関へ行くにはこいつの横を通らなければならない。

 そばに寄りたくはないが、ぴくりとも動かない。きっと階段から落ちたショックで死んだか気絶しているんだ。

「お母さん。こいつ気絶しているみたい。今のうちだよ。早く」

「ショウコ。これ何なの。気持ち悪い。ねえ何なの」

「知らないよ。いいから行こう」

「何なのこれ。何なのこれ。ねえ。お父さんはどこ。あなた。あなたどこ。お父さんならきっと知っているわよ。あなた。あなた来て」

「お母さん。静かにして。お願いだから。こいつが起きちゃったらどうするの」

「あなた。あなた。どこなの。そばにいて。私のそばにいてよおおおおおおお」

 いつも笑顔の母。気丈な母。やさしい母。家事と育児と仕事をこなし、周りの人の頼み事まで快く引き受ける母。忙しいのに私を立派に育ててくれた。尊敬出来る母。弱い面を見せたことの無い母。お父さんといちゃいちゃする母。お父さんのことも、私のこともとても愛してくれた母。

 そんな母が、ここまで取り乱した弱い姿を見るのは初めてだった。

「しっかりしてよ、お母さん」

 私はお母さんのほほをぴしゃりと叩いてしまった。

「ショウコ……?」

 お母さんが呆然と私を見つめる。叩かれたほほを手で押さえ、私を非難しているように見える。

「あ、ご、ごめんなさい。でも、でも、ほら、急いで」

 こんな弱いお母さんを見たくなかった。尊敬していた母に失望を覚えた。でもお母さんだって人間なのだ。弱いところはある。崩れることもある。今は私が気丈に振る舞わないといけない。

 私だって泣きたい。取り乱したい。でも危険が私を駆り立てる。血が沸騰する。身体が熱い。何だこれ。苦しくはないけど、風邪をひいたときより身体が熱く茹だっている。

 きっと今までに無い恐怖にかられているせいだ。アドレナリンだかなんだかが分泌されているのだろう。お父さんは無事だろうか。この気持ち悪い肉の塊は何なのだろうか。とにかく今はこの家から逃げ出さないと。

 私はお母さんの手を引いて玄関へ向かう。

「ショウコ?」

「お母さん、早く」

「ショウコ。どこ?」

「お母さん、いいから早く!」

 私は金切り声を上げ、お母さんの手を引っ張りながら肉の塊の横を通り、玄関のドアに手をかけた。

 ガチャリとドアを開ける。外は真っ暗だ。何も見えない。

 いくら明るい家から夜の外へ出るといっても、外は晴れている。真っ暗で何も見えないなんてことは無い。

 私はとっさに立ち止まった。

 ガチン。

 大きな音が響いた。ドアの外にある闇が突然文字通り口を開け、牙が並んだそれを音を立てて閉じた。

「ひっ、い?」

 驚いて尻餅をつく。お母さんの手を離してしまう。

 私は、肉の塊である化け物から逃げようとした。なのに玄関を開けたそこには別の化け物がいて、ドアを塞いでいたのだ。

 その化け物は漆黒で、闇のようだった。牙の並んだ口をガチガチ鳴らす。そしてめりめりとドアから身体を押し込んできた。

 むにゅううっと、漆黒の闇が、風船が膨らむように玄関から押し入ってくる。ドアを開けなければ入れなかったようなのに。私がドアを開けてしまった。

「ひ、い、あっ」

 尻餅をついたままがたがた震える。恐ろしさの余り腰が抜けた。気付いて立ち止まらなければあの牙で噛み砕かれ殺されていたのだ。死を実感したのは生まれて初めてで、それはとうてい耐えられるものではなかった。

 さっきまでお母さんの代わりに気丈に振る舞わないといけないと張りつめていた。でもその緊張が切れて、もう私は頑張れなかった。

「う、うう、うえ、ひっく、助け、助けて、お父さん、お母さあああん」

 泣いて動けない私に、玄関から押し入ってくる漆黒の闇と、その先端に開いた牙が近づいてくる。

 さっきの肉の塊と同じように、匂いがまったくしない。

 なぜか、余裕が無いのにそんなことを考えた。

「走れ」

 突然、後ろから知らない声がした。男の声だった。でも清流のように澄み切っていて、こんなに甘美な声は初めて聞いた。

 ばちんと、全身が電気に打たれたような衝撃が走った。いや違う。恐怖により金縛りになっていた身体が自由を取り戻したのだ。身体が熱い。血液が熱湯に置き換えられたようだ。マグマが全身を駆け巡っている。なのに苦しくない。力が湧いてくる。

 私は、目の前に迫る巨大な口から逃げるため、さっと振り返って走り出そうとした。

 その途端、足元にある何かにつまずいた。

「きゃああああっ」

 そのまま廊下を転がる。何だ。何につまずいたんだ。

「ひいっ」

 そこには巨大な肉塊があった。白い肉塊。白い汚泥に包まれた、牛ほどもある巨大な肉の塊。

 さっきの黒い肉塊なのか。黒と白で色が違う。階段の下を見る。そこには黒い肉塊があったのだが……

「ひいいいいいっ」

 黒い肉塊は、手足のような物が生えていた。丁度図鑑で見たサンショウウオのようで、頭らしき部位には口が開いていた。

「走れ。奥へ行け」

 その醜悪な黒いサンショウウオから、さっきの清らかな男の声が聞こえる。余りの違和感に二度驚く。

「ひい、いいいいひいいいいいい」

 わけがわからない。でも身体を起こすと立ち上がり、廊下を走る。震えて上手く走れない。よたよたと、みっともなく壁にぶつかりながら奥へ逃げる。

 何なの。黒い肉塊がサンショウウオみたいに手足を生やしてしゃべった。逃げろ、奥へ行けとしゃべった。

 何で。あれは、私を襲っている化け物ではないの?

 私がつまずいた白い肉塊はなんだったのだろう。あんなものいつの間にあそこにいたのだ。何の音もしなかった。恐怖で聞こえなかっただけなのか。

 そして玄関にいた漆黒の化け物。動きがゆっくりだったから食われずに逃げられた。身体がなかなか入れないらしい。でもあの調子だと、やがて全身押し入ってくるだろう。そうなればどれだけ素早く動けるのかわからない。

 そこではたと気付く。

「お母さん? お母さんどこ、どこにいるの」

 叫ぶ。奥にいるのだろうか。玄関の化け物に驚いてお母さんの手をうっかり離したあとから、お母さんの声は聞こえなくなった。気配がしなくなった。

 代わりにいたのはあの白い肉の塊。お母さんは、あいつに食われてしまったのだろうか?

「そんなの、いや、いやあ、そんなわけない。お母さん、お母さんどこ。いるんでしょ。ねえ。返事してえ」

 きっと奥に逃げ込んでいるはず。お母さんもお父さんも無事なはずだ。だってそう思わないともう辛すぎて、悲しすぎて……

「ひとりぼっちはいやあ、お母さん、お父さああああん」

 私は小さな子供のように泣きじゃくりながら、涙で見えない廊下を壁に手をつきながらよろよろと歩いた。

 台所につく。テーブルには皿が載ったままだ。さっきまであんなに楽しく家族で食卓を囲んでいたのに。どうしてこうなったのだろう。

 一体何なのだ。私はこれからどうすればいいのだ。混乱する頭で考える。身体が熱い。焼けるようだ。おかしい。こんなの絶対おかしい。私に何が起こっているのか。今のこの状況は夢でなければおかしいのに、現実なのか。

 台所の勝手口から外へ出るべきか。でもさっきの玄関のように、また漆黒の化け物が口を開けて待ちかまえていたらと思うとそれは出来なかった。

 窓の外が真っ暗だ。何も見えない。これってつまり、家全体があの漆黒の化け物に覆われているということだろうか。

 つまり私はもう逃げられない。終わったのだ。

「お母さん、どこなの、いるんでしょ。ねえ、出てきてよお」

 最後にお母さんに会いたい。その腕に抱きしめられ、慰めてもらいたい。お風呂場にいるのかも。それともトイレか。

 台所を出てお風呂場へ向かう。見ると廊下からむりむりと、漆黒の化け物が首を伸ばしている。もう廊下の半分まで侵入してきている。

「ひいいいい」

 まだ距離はある。でも時間の問題だ。奴はじわじわと押し入ってくる。動きはのろいが確実に、家のどこにいても届くだろう。

「お母さん、お母さん」

 お風呂場にもいない。トイレにもいない。どこにもいない。

 もしかして、勝手口を開けて出ようとして、漆黒の化け物に食われたのか。

 いや、それならドアが開いてないとおかしい。だからお母さんは外へは出ていない。

 こうなるともう、さっきの白い肉塊か、しゃべった黒い肉塊のどちらかに食べられてしまったと考えるのが妥当だろう。お父さんもきっと二階で黒い肉塊に食べられてしまったのだ。

「お父さん、お母さん、食べられちゃったの?」

 私は壁を背に、ずるずるとへたり込む。もう気力がわかない。今の危機がどうこうよりも、両親を失った悲しみだけで死にそうだ。

「おい、お前の両親は食べられたわけじゃない。ちゃんと生きている」

 はっとする。その声を振り返る。

 見ると、黒い肉塊だったサンショウウオが、直立していた。いや、もうサンショウウオではない。人間に見えるぐらいの造形になっている。

「あんた、何なの。何なのよう」

 私は嗚咽しながら尋ねる。こんな化け物と会話するなんて我ながら正気ではない。

「俺か。まあ待て。もう少しで変質が終わるからな。こんな黒くてずぶ濡れのみっともない姿の内に名乗りたくはない」

 ずるずると、直立した黒い人型の化け物の全身を覆う泥が流れていく。その身体からあふれているようだ。不思議なことに、流れた泥はしばらく床に停留したあと蒸発するように消えていく。汚らしいのにまったく匂いがしない。

 黒く流れる泥から、肌色がのぞく。白に近い透き通るようなきれいな肌。黒い泥にまみれているせいか光を放つようにさえ感じる。

 泥が全て流れ落ち、現れたのはたくましくも均整の取れた美しい男の肉体。ウェーブのかかった腰まである長髪。そしてりりしく雄々しいにも関わらず女よりも美しいと思えるほどきれいな顔だった。

 人間離れした美しさとたくましさ。完璧な男性というものがいるならこういうものだろう。どんなに美化したギリシャ彫刻よりも美しく完璧な造形だった。

 私は彼の頭のてっぺんからつま先までをまじまじと見つめる。そして視線を戻し、途中で止まる。

「おいおい。いくら処女だからって見すぎだろ。いやらしい奴だな」

 言われてはっと顔を上げる。恥ずかしさに真っ赤になる。そしてそっぽを向く。

 だって、本物をちゃんと見るのは初めてだもの。子供の頃に見たお父さんのなんてあまりはっきり覚えていない。垂れている状態であんなに大きいんだ。あれが大きくなったらどれだけすごいのだろう。

 こんなときなのに、いやこんなときだからこそか。性的な興味が強くなる。そんなことでもいいから恐怖から気を逸らさずにはいられないのだ。

「なんなの、あんた。そんなの見せないで。それに私が処女だなんて、どうしてわかるのよ」

「お前のことは何でも知っている。今の事態も全部説明出来る。安心しろよ。俺は味方だ。敵じゃない」

「ま、前、隠して」

「何だよ。見たいんだろ。いくらでも見ろよ。触ってもいいぞ」

「馬鹿」

 本音を言えば、もっと見たい。触ってみたい。すごく興味がある年頃だ。いやいや、今はそんな場合じゃない。

「あんた、何なの。私を、助けてくれるの?」

「んー、助けるけど手助けするわけじゃない。戦うのはお前だ。これはお前の試練なんだからな。でも何の知識も無しではどうしようもないだろう。それは試練にすらならない。試練というのは尋常でない努力をしないと乗り越えられないが、一人きりでするものでもない。俺が助けるのはお前に必要な知識を与えることだけだ」

「何よそれ。男でしょ。女の子が困っているのよ。いいから助けてよ」

「ははは。さっき俺の股間を凝視したのをからかったから怒っているのか。かわいいなあ。ますます気に入った。女は建前を大事にするからな。本当は見たいくせに。まあ隠せというなら隠してやろう」

 男は廊下に飾ってある物を手に取ると、それが光り輝き形を変え、男の身体にまとわりついて服となる。

「うあ」

 私は思わず間抜けな声を出す。こんな魔法みたいな光景を目の当たりにするのは初めてだ。

 思わず見とれる。顔がすごくきれいで身体がたくましい男が服を着るとすごく様になっていて格好いい。もしこんな男が街を歩いていたら、女なら年齢に関わらず振り返りときめくだろう。

「見ている場合じゃないだろう。あとでじっくり見せてやる。触らせてやる。楽しみに待っていろ」

「べ、別に、そんなことしたくないわよ。このスケベ」

「お前の方がスケベなくせに。まあいい。そろそろ時間が無い」

 彼があごで示す。私が横を見ると、漆黒の首が伸びてその牙を私の眼前に広げていた。

「きゃあああああ!」

 私はとっさに背を反らす。目の前で牙がガチリと噛み合わされる。

「ははは。ほらほら。逃げないと食われるぞ」

 男はとてもきれいな声で、でもけらけらと笑う。むかつく。人をおちょくってばかり。なんて軽い男なのだろう。

 余りにも容姿が整いすぎている。美しすぎる。だから醜い肉塊から変形した彼のことを男として見てしまう。

 あそこも見てしまったし。男と意識せずにはいられない。すごかった。立派だった。また見たい。

 いけない。本当に、そんな場合じゃない。私はこんなにいやらしい子だったのか。ありえない現実で、命の危険にさらされながら、見てしまった男のあそこのことばかり考えている。

 ドキドキする。恐怖のドキドキと性的なドキドキは同じ物と錯覚するらしい。きっとそうだ。私はそんなにいやらしい子じゃない。

 台所に逃げ込む。男が少ししてから台所に入ってくる。

「ほらよ。忘れ物だ」

 男が手にぶら下げて引きずってきたのは大きな白い肉の塊だった。

「やだあ、何持ってきているのよ」

「何って。ははは。何かわからないのか?」

「わからないわよ。捨ててよ。気持ち悪い。何なのそれ。私を襲う化け物の一匹なんでしょ」

「違うね。こいつはお前の味方だ。俺と同じくな」

「え? その白い塊も、あんたみたいな男になるの?」

「いいや。こいつは人間が化け物に変質している最中だ。お前のためにあの悪魔と戦う聖なる獣、聖獣だ」

「悪魔?」

「そう。あの漆黒で口を持つ奴が悪魔。お前を殺しに来たんだ。天使の試練を開始したからな。すぐにかぎつけられる。身体が火照っているだろう。お前は天使に変質している最中なんだ。時間がかかる。個人差はあるがおおむね数週間だ」

 彼はいきなりまくし立てる。わけがわからない。

「ええと、そのう」

「ああ。いい、いい。すぐにはぴんとこないだろう。奴がこの部屋に来るまでの間、ちょいとおしゃべりするだけさ。それにしてもお前はかわいいな。本当に聞きたいこと、理解しなければならないことをあえて考えないようにしている。人間のそういうずるいところが実にかわいくてたまらない」

 彼はくっくと笑う。

「一つずつだ。お前の絶望の嘆きはあとでたっぷり楽しませてもらうとして、その前に自己紹介を済ませておこう」

 彼は手に持った白い肉塊を私の足元に放る。どしんと落ちる音からして見た目通りかなり重いにも関わらず、まるで軽いゴミ袋を放るような手軽さだ。人間離れした力。私はあとずさる。

 この白い肉塊は人間が変質して化け物になっている。私を守るために。

 彼が言ったそのことに、私は今言及したくなかった。考えたくなかった。だって私の後ろにいたお母さんが突然いなくなって、私の後ろに突然この白い肉塊が横たわっていた。それって、それって……

「俺の名前はストレイジ。神の一人だ。神は十八歳で美しく純潔の乙女を天使に変質させて妻にする。そのために来た。今、お前を天使に変質させている。血がたぎるように熱いだろう。天使の力がみなぎって、肉体が少しずつ変質している最中なのだ。お前に拒否権があるわけがない。神の意志に逆らえる人間などいない。わかるな。ショウコ。お前の自己紹介はいらない。お前のことはお前よりもよく知っている。ずっと観察していた。ずっと観測していた。今までの女どもはことごとく天使の試練に失敗してしまったが、今度こそ頼むぜ。いい加減俺も妻を娶りたい」

 彼はにやにやと笑いながら自己紹介を済ませる。相変わらず早口でまくしたてる。理解しきれない私が戸惑う様子を見て楽しんでいるのがありありとわかる。

 こいつ性格が悪い。神様だって。信じられない。こんな軽薄で意地悪な神様なんているものか。

 私はこいつの言うことを信じない。信じてはいけない。だってこいつの言うことが本当なら、私の足元に転がる白い肉塊は……

posted by 二角レンチ at 18:12| 天使の試練 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月17日

天使の試練(4)悪魔 3

天使の試練(4)悪魔 3

 自らを神と名乗る男はまだ話を続ける。

「わかるか。危機と恐怖にさらされ、混乱した頭でいきなり理解しろとは言わない。ただ説明するだけだ。じっとしているだけでは暇だからな。ただ戦い方だけ教えるよりは一応あれこれ説明しておいた方が理解しやすい」

「あんたが神?」

「そうだ。神は八百万とは言わないが、万を数えるくらいはいる。俺はその一人だ。この肉体を変質させて顕現した。この姿は俺の化身の一つだ」

 彼は一呼吸置いて私を見つめる。

 この肉体を変質させた。

 その肉体はどの肉体だろう。誰の肉体だろう。

 答えはわかっている。でも私はそこで思考を停止する。

 彼は私が考えるのをやめたのを見て、げらげらと笑い出した。

「いいぞ。お前は最高だ。今までの女よりも精神的にタフだ。だからこそ見込みがある。天使の試練を乗り越える可能性がある。他の女なんて大概ひどかったぞ。この話をすれば泣き叫んで俺を非難する。返せ返せとわめき散らす。それぐらい怒れればまだいいが、泣き崩れたり絶望して自殺する奴もいるし発狂する奴もいた。そういう女は嫌いだ。強い女がいい。精神も、肉体も、強くタフでないと天使の試練は乗り越えられない。俺の妻になれない。お前は実に見込みがあるな。今までの女の中で一番ましだ。そのずるさがたまらない。都合の悪いことは考えないようにしてでも己を保つ。人間の悪いくせだが今の状況ではそうでもして乗り切らないとやっていけない」

「うるさい。何のことかわからないわよ」

 本当はわかっている。でも、考えてはいけない。

 お父さん……

 泣きそうだ。階段から落ちてきた醜い黒の肉塊が、この神を名乗る男に変質した。その肉塊になる前はどんな姿だったのか。私とお母さんを守るために勇敢に家の中を調べ回っていたお父さんは二階からどこへ行ったのか。

 泣いてはいけない。もうさんざん泣いた。恐怖した。今は生き残ることだけを考えるんだ。お父さんとお母さんを助けることだけを考えるんだ。悲しんだり、取り乱したりしてはそれが出来なくなる。こいつの話を全て信じるわけではないが、全てを否定して取り返しのつかないことになるわけにはいかない。

「いい目だ。俺を憎んでいる。恨んでいる。しかし絶望の果てに希望を見ている目だ。生き生きしている。お前、こういうの好きなんだろう? お前みたいに平凡な奴は退屈な日常に飽きている。いつか自分にも劇的な出来事が起こるのを密かに望んでいる。よかったなあ。こんなの普通の人間には味わえないスリルと興奮だ。ははは。ちゃんと救いはあるさ。お前が考えている通りな。賢い。よくわかっているじゃないか」

「うるさい。お父さんとお母さんは、どうすれば助かるの」

 もうここまで来たら、嘆く前にどうすればいいかを知らなくてはいけない。人間が変質すると肉の塊になる。それからさらに変質が進めば目的の形になる。

「んー? ふふふくははは。飛ばすなよ。ちゃんとはっきり言葉で聞きたいだろう」

「聞きたくない」

 私は毅然とにらむ。

「くっははは。いいぞ。小娘の脅しに屈する神がいるわけがない。精一杯の虚勢がいじましくてかわいいなあ。たまらない。今すぐ抱きたいくらい欲情する」

「うるさい。私はどうすればいいの」

「聞かせてやるよ。お前の親たちがどうなったか。お前の考えている通り。馬鹿でもわかることだが混乱した人間はそこまで思い至らない。お前は思い至ったようだがあいにくだな。言葉で聞かせたときの絶望の表情がたまらなくそそるんだ。セクシーなんだよ。小娘が最高の色気を放つのは絶望したときだ。その顔が見たい。だから俺はお前に聞かせる」

「お願い。言わないで」

 精一杯強がってみせたがまるで効果が無い。だからもう、哀れに懇願するしかない。

「いい。お前みたいに強い女が大好きだ。強い女を屈服させ絶望の涙を見るのが最高に楽しいショーだからな」

「お願い。許して」

「お前の考え通り、この俺の肉体はお前の父親を変質させたものだ。そしてお前の足元に転がるその白い肉塊は、お前の母親が変質した物だ」

「いやああああああ」

 彼の声は人間の声ではない。神の声は耳を両手で塞いでも、はっきりと聞こえる。

 私はうずくまり、ボロボロと涙を流した。その涙が、床でもぞもぞうごめく白い肉塊に垂れる。

「おかあ、さん……」

 私は嫌悪を抱くほど醜悪な肉塊にしがみつき、抱きしめた。

「あああ。いつ見ても人間の絶望は面白いなあ。神が人間を作り出したのは自分の妻となる天使を生み出すためだ。何せ神は男しかいないからな。だがその副産物として、人間を観察して楽しめるおもちゃにした。本来女しかいらない人間に、男を作ったり感情を持たせたりしたのは人間だけが作り出せる絶望や悲劇を楽しむためだ。感情を持たない単調な動物ではショーは演じられないからな」

 彼がからからと笑う。何がおかしいんだ。お父さんとお母さんを変質させて何が面白いんだ。

 許せない。この男は絶対に許せない。

「ふははは。俺が殺したいほど憎いだろう。愛と憎しみは表裏一体。感情はそういうように作ったからな。俺への憎悪が深いほど俺への愛が深まる。単に甘やかして愛するだけではそこまで深く至れない。俺は妻と最高に愛し合いたいのだ。だからそのためにまず、俺を最高に憎んでもらわないといけない。俺が妻に決めた女にはいつもこうして、近しい人間の肉体を乗っ取って俺の化身にして顕現する。これが一番簡単で、最も憎しみを引き出せる方法だからだ」

「そんなくだらない理由で、お父さんとお母さんを」

「おっと、誤解するなよ。俺が変質させたのはこの肉体、お前の父親だけだ」

「何言っているのよ。じゃあこのお母さんは誰が変質させたっていうのよ」

 ぞっとする。彼が言わんとしていることにぴんとくる。

「んー、ふふふ。お前は本当に賢いなあ。気付いたようだな。誰がお前の母親を変質させたか」

「まさか」

「そうだ。お前の母親に最後に触れていたのは誰だ。俺でもなければもうそこまで来ている悪魔でもない。誰がお前の母親に触れて変質させたのかな」

「いや、いや」

 私はがちがち歯を鳴らしながら震える。

「お前はまだ天使に変質する最中だ。力が限られている。変質しはじめのお前ではまだ天使の力をほとんど使えない。今使える力は変質だけ。人間を変質させ、聖なる獣、聖獣に変質させて悪魔と戦わせることだけだ」

「いや、うそよ。私そんなの、していない」

「くっくっく。いやいや、噓をつくなよ。お前あのとき、取り乱しているだけで何もしてくれない母親のことを足手まといだと思っただろう。本当は自分を守って欲しいのに、どうして自分が母親を守らないといけないのだろうと思っただろう。だから力を使ったんだ。力は望まないで勝手に発動するような物ではない。道具と同じだ。使おうと思わないと使えない。お前が望んだんだよ。お前の母親が醜い肉塊に変質したのはお前が母親をそうしたいと思ったからだよ」

「うそようそよ。こんなの望むわけがない。お母さんが足手まといだとか、邪魔だとか、私思ってなんかいなかった」

「あっはははは。面白すぎる。顔に出てるぜ。自分が嘘をついているってはっきりわかっている顔だ。自分の醜さに絶望している。自分のしたことに絶望している。もう償えないなあ。謝っても聞こえていないぞ。変質した肉塊はもう人間じゃない。人間じゃないから感情を持たない。聖獣に通じるのは命令だけだ。お前の口先だけの謝罪は聞こえないし、それで許してもらおうなんて思うなよなあ」

 神を名乗る男は私の顔をのぞき込むようにしてげらげら笑う。こいつはたしかに神かもしれない。人間が、こんなひどいことをして笑えるわけがない。

「お母さん。ごめんなさい。ごめんなさあああい」

 私は泣きながら肉塊をぎゅっと抱きしめる。温かい。これがお母さんだなんて。私の中に宿る天使の力でこうなってしまったなんて。

 謝っても謝り切れない。私はたしかにあのとき、手を引いても走ってくれないお母さんにいらついていた。私がお母さんを邪魔だとこれっぽっちも思わなければきっとこんなことにはなっていなかったのだ。

「あー、面白かった。これで前座は終了だ。もっといろいろ説明しないといけないがもう時間切れだ」

 彼が指さす。見ると、私たちのいる台所の入り口に、むにゅりと巨大な漆黒の肉が押し入ってきていた。風船のように徐々に膨らむその肉は、牙の並んだ口を大きく開いて私へ迫ってくる。

「賢いお前ならわかるか。どうしてこいつがこんなにのろいのか」

「わからないよ。ええと、スト、スト……」

「ストレイジだ。賢いくせに、神の名前くらい一発で覚えろよ」

 ストレイジ。彼の名前。名前なんか呼びたくもないほど憎い。神様だなんて敬えるわけがない。

「ストレイジ」

「呼び捨てかよ」

「軽蔑している人にさんとか様とかつける理由は無いわ」

「はっはあ。賢いねえ。俺がいくらむかついてもお前に危害を加えないのがわかっていて言っているんだな?」

 私はうなずく。

「その通り。俺が出来るのはお前を言葉で責めて泣かせることだけ。天使の試練にある女に対し、神は何もしてはいけない。危害も助けも与えられない。ルールを破れば試練に失敗してしまうからな。ただ話すことだけは禁じられていない。知りたいことは聞けば教える。神に出来るのは真実を話すことか沈黙だけだ。噓は言えない」

「そんなの信じられない」

「神を信じるかどうかと同じくらい、俺を信じるかどうかはお前の自由だ。強制はしないし出来ない。さて、で、この悪魔がどうしてこんなに鈍いのかだったな」

「教えて」

「教えてと言って答えが返ってくると考えるのは人間の傲慢だ。だがまあ神は無慈悲ではない。親切ではなく慈悲の心で教えてやろう。神を呼び捨てにする不遜な人間に対してもな」

 いちいちカンに触る奴だ。こんな奴呼び捨てで十分お釣りがくる。

「こいつがのろいのは、目的が足止めだからだ」

「足止め?」

「神や天使と同じく、悪魔も万を数えるくらいはいる。でも人間に比べて余りにも数が少ない。いちいち天使になる可能性のある人間全てにはりついたり殺したり出来るわけがない。顕現にも魔力の行使にもルールがあるからな。ルールを破れば力が失われる。ルールに縛られることで力を得ているからだ。人間が魔力を行使出来ないのは単に人間がルールを守らないからで、力を持たないわけではないんだぞ」

「そう。それで」

「さんざん泣いたあとは実にそっけない。いいねえ。実にいい。その冷静さ、いや、冷徹さ。自分のしでかした罪から逃れるための毅然と決意。いい。実に人間らしいずるい理屈で前進している。それぐらいずるくタフでなければ試練は達成出来ない」

「早く話しなさい、ストレイジ」

「命令か。天使にもなっていない人間が、神に命令?」

「そうよ」

 ストレイジはうつむいてくっくと笑う。

「いいねえ。実に初めての経験だ。人間に命令される。ぞくぞくするねえ」

「あんたマゾなんじゃないの?」

「マゾ?」

 彼がきょとんとする。

「マゾって言うのはねえ」

「いや、意味は知っている。しかし、俺がマゾか……」

 彼はあごに手を当てて考え込む。

「それは面白いかもしれない。楽しくなってきたな」

 あきれる。性癖は面白いかどうかで決まるものではない。

「あんたねえ、本当話がすぐ横に逸れる。いらいらするわ。この悪魔が足止めってどういうことなのかさっさと話しなさいよ」

 さんざん泣いて、さんざん怖がって、とうとう肝が据わってきた。彼のセリフをなぞれば楽しくなってきたかもしれない。

「ああ。俺がマゾか。くふふ。楽しい。そうだな。こいつは見ての通り雑魚だ。この家全体を覆い、窓からもドアからも逃がさない。その気になれば家ごと押し潰してお前を殺すことも出来るのにそうしない。悪魔は天使の試練にある人間を殺して新たな天使が生まれるのを阻止しようとする。にも関わらずそうしないのは、こいつが他の上級悪魔に使役される下級悪魔だからだ。お前を殺すなと命じられているんだ」

「どうして?」

「天使の力が宿った人間は最高のごちそうだからな。精神も、肉体も、文字通り骨の髄までしゃぶり尽くされる。悪魔が天使の聖なる魔力を取り込むにはその力を黒く染める必要がある。苦痛、恐怖、絶望といった負の感情でじっくり煮込めば悪魔でも食らえる黒い魔力の出来上がりだ。そうするためには人間の拷問なんて生ぬるい。魔力で生きながらえさせながら地獄を味わわせるんだ」

 彼はにやにやしながら話す。何が面白いのだろう。

「んー。何だ。ああ。俺が何でにやにやしているか気になるか」

 私は素直にうなずく。

「そりゃあなあ、それはそれで見物だからだ。実に楽しいショーなんだよ。言っただろう。人間の絶望した顔を見るのはとても楽しいことなんだ」

「まさか」

 本気でぞっとする。

「そのまさかさ。天使の試練に失敗して、襲い来る悪魔を撃退出来なかった女はどうなると思う? 悪魔に捕まり、魔力で死ぬことも許されずに七日七晩地獄の拷問を受ける。その苦痛と絶望に歪む顔がどれほど見物かわかるか。苦しすぎて歪めすぎて、歯が折れあごが外れ、目玉が飛び出してこぼれ落ちるんだぜ。髪は雨みたいにざあざあ抜けるし、しわというしわが引き裂かれ血が垂れ落ちる。最高に楽しいぜえ。普通の人間には作れない苦悶の表情。悪魔に価値があるとすれば人間をあそこまで絶望させることが出来るって点だけだ。あれだけは神の誰も成し得ない。神は人間に対して慈悲があるからな。完全無慈悲な行いは出来ないんだ」

「この……悪魔」

「俺が悪魔だと。そいつは最高の冗談だ」

 彼はわずかに笑う。でもすぐに真顔になる。

「神に対し悪魔とののしるのは最高の侮辱だ。人間だってお前は毛虫だのうじだの言えば許せない侮辱になるだろう。二度と言うな」

 軽い男に見えていた彼が、はじめて凄みを見せた。それはとても恐ろしく、まるで底の見えない崖の淵に立たされたような壮大で圧倒的な畏怖を感じた。

「ご、ごめんなさい」

 こんな奴に謝りたくない。でも謝らずにはいられなかった。これが畏怖。ただの恐怖とは格が違いすぎる。彼が神というのはこれだけで十分証明されたと言える。

「悪魔というのは神の下の天使よりもはるかに下の存在だ。神からすれば毛虫ほどの存在でも無い。さっきからこの悪魔は俺を無視しているだろう。天使の試練中でなければ決して神に近づきもしないのだ」

 そういえば、彼が白い肉塊と化したお母さんを取りに悪魔のいる玄関へ行って、どうして無事だったのか不思議だった。彼が神だから、悪魔は手を出さなかったのか。

 彼の言う上級悪魔は彼自身ではないのか、と言おうと思っていたけれど、もうそれを口に出すことは出来なかったし、違うようだからもういい。

「この悪魔はきっともっと素早く動ける。お前を食い殺すのは造作も無い。でも牙で脅すだけだ。天使の膨大な魔力を得るチャンスだからな。文字通りのごちそうなんだよお前は。上級悪魔がそれを見逃すわけがない」

「どうして。強い魔力を得られるから?」

「違うな。堕天使って知っているだろう。天使が悪魔になるって奴だ。正確には天使だけでなく、神でも罪を犯した者は悪魔に堕とされる」

「え?」

「天使の試練はそういう連中が返り咲くチャンスなんだよ。天使になる人間にとっては天使になる試練だが、悪魔にとっては天使や神に成り戻るチャンスなんだ。天使になる人間を殺してその魔力を蓄えていけば、やがて再び天使や神になるだけの魔力を持つことになる。そうなれば晴れて免罪、復帰出来るってルールなんだ。悪魔っていうのは無期限だが努力次第で釈放される刑期みたいなものなのさ」

 それってつまり、悪魔は元天使や元神ってわけで、やっぱり神は悪魔と同じではないか。

 でもまっとうな人間が犯罪者と一緒にされたくないように、神も悪魔と一緒にされたくないのだろう。たしかに神に対して悪魔とののしるのは最高の侮辱に違いない。

「だからもうじきこの下級悪魔にお前の足止めをさせている上級悪魔が来る。お前を捕えるためにな。今の弱いお前がその悪魔に出会うのは危険だ。撃退はまず無理だ。だからお前が助かるには、この悪魔を倒して逃げるしかない」

「倒すって、どうやって」

「そこはもうわかっているだろう。天使の力が宿り始めたばかりのお前は人間を変質させ聖獣に変えることしか出来ない。その聖獣で悪魔を撃退するんだ」

 私はお母さんだった白い肉塊をじっと見つめる。

「いやだよ。こんなになってもお母さんなんだよ。あんな恐ろしい悪魔と戦わせることなんて出来ない」

「もう時間が無いぞ。言わなくてもわかっているんだろう。お前が無事天使になれば、お前の母親を人間に戻せる。俺もお前に付き添うため化身に変質させたこの肉体を解放し、再びお前の父親の姿に戻せる。お前に選択肢は無い。両親を救い、自らの命を助けるためには、今ここでお前の母親をさらに変質させ、悪魔と戦わせるしかないのだ」

「そんなこと、出来ないよ。お母さんをこんなにしちゃったのに、さらに変えてしかも悪魔と殺し合わせるなんてさせられない」

「いいや。お前はするね。お前は今まで見初めた女の中で一番賢い。頭がいいわけではない。ずる賢いんだ。人間らしい、低俗な汚さを持っている。その汚さを遂行するために冷徹になれる。今のままならお前は上級悪魔に捕まり何度も死ぬより苦痛な拷問地獄を七日七晩受け続ける。耐えられない苦痛と恐怖と絶望に、何度壊れても魔力で正気と生を無理に維持させられる。絶命する程の苦痛と恐怖をえんえん味わい続けるのだ。そんな目に遭いたくないだろう。それにお前の母親は、そんな姿のまま見殺しにしていいのか。お前の母親ならきっと、戦って死ぬことを選ぶね。お前のために。そうだろう。人間の母親って言うのはそういうものだ。そういう子供のためなら何でも出来る程愛情深い親を持つ子を選んでいるからな。お前は両親を助けるためにどうするんだ。道は一つしか無い。時間はもう無い。んんー?」

 彼はにまにましながら私の顔をのぞき込む。

 むかつく。許せない。卑怯だ。最低だ。

 彼が、そして私が、卑劣で最低で汚かった。

「お母さん、ごめんねえ……」

 私はボロボロと泣きながら、お母さんだった肉塊を抱きしめる。私の中にかけめぐる沸騰した血液のような魔力。それをお母さんに注ぎ込む。

 彼の哄笑は聞くに耐えなかった。それでも聞いた。私はそれを受けなければならない、罪深く汚い人間だったから。

posted by 二角レンチ at 13:10| 天使の試練 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月18日

天使の試練(5)悪魔 4

天使の試練(5)悪魔 4

 私の中に渦巻く魔力、天使の力。神を名乗る男に与えられたその力で出来ることは、今はまだ一つだけ。

 人間を聖なる獣、聖獣に変質させ悪魔と戦わせる。

 私は、私の力のせいで醜い肉塊に変わってしまったお母さんに、さらに魔力を注ぎ込み聖獣へと変質させる。

 泣いて謝りながら、それでもする。

 そうするしか道は無い。私も、お母さんも生き残るためにはそうするしか無い。

 私が完全な天使に変質出来ればお母さんを人間に戻すことが出来る。だから今、聖獣に変質させてもあとで戻せるから大丈夫。生き延びなければ戻すも何もないのだから。

 極めて合理的で、他の選択肢を選べるわけがない。

 そう納得して、私は力を行使する。

 それがどれほど恐ろしく罪深いことか、言われなくてもわかっている。

 なのに神を名乗る男、ストレイジは嬉々としてべらべらのたまう。

「普通するかあ、出来るかあ? 出来ないね。自分の大事な人を化け物に変えて恐ろしい悪魔と命がけの戦いをさせるなんて、普通は出来ないね。今まで天使の試練を課した女の子の大半はここですでにつまずく。ただの一戦も乗り越えられずに悪魔に殺されてしまう。せっかく神である俺が妻に選んだのに試練を乗り越えられないクズどもが。選択の余地の無い状況で迷うことも言い訳もせずに済むようにしてやっているのに選択を拒否するんだ。はっきり言って馬鹿だね。だから悪魔の拷問にかけられるのは自業自得だ。俺がそれを見物して楽しむのは当然の、せめてもの恩返しだろう」

 何が恩返しだ。お前なんかに目をつけられた女の子たちは、私も含めて災難としか思わない。恩どころか仇でしかない。私だけでなくお父さんとお母さんまで巻き込んで。絶対許せない。

「しかし中にはお前のように賢い者もいる。感情より損得で動く。打算で動く。よく言えば合理的。でも実際は利己的。お前、自分のために化け物になってくれって言われて素直にうんとうなずけるかあ? みんなが生き残るためにお前だけ恐ろしい悪魔と戦ってくれって言われて戦えるかあ? 無理だよなあ。それをお前は強制しているんだ。ひどい話だよなあ。残酷残酷。たまらないねえ。人間の汚い本性を暴くのは実に面白い。最高のおもちゃだよ。賢い人間は。愚かで感情だけで動く弱い人間は実につまらない。ここでつまずくような女どもは、実につまらないおもちゃ未満のゴミだった」

 ぎりぎりと歯を食いしばる。私と同じ境遇の女の子たち。会ったことも無いけどとても親近感を覚える。その子たちを馬鹿にされて私は自分でも意外なほど腹が立つ。

 私は見知らぬ人間のためにでも怒れる程情に厚い人間だったのか。

 私は大事なお母さんを化け物に変えて戦わせるほど情の薄い人間だったのか。

 自分の知らなかった面がどんどん暴かれる。ストレイジ。この男にとってただ天使の試練の付き添いをするのは退屈なのだろう。だからこうしておもちゃで遊ぶのだ。人間の汚い面をさらけ出させ、絶望の表情を見るのが楽しい遊び。人間や感情はおもちゃなんかでは決してないのに。

 目の前にいる悪魔が私の足止めというのは本当らしい。漆黒のつるりとした肌を持つ風船みたいな悪魔は、鋭い牙の生えた大口を何度となく私に向ける。でもちょっと身を動かすだけで避けられる。その気になれば簡単にかじりつくことが出来るだろうに、私を怖がらせるためだけにかじる振りをする。

 もう今いる台所も悪魔の身体が膨張して大分埋められてしまった。逃げ場は無い。

 私が魔力を注ぎ込んでいる白い肉塊がうごめく。変質する。形が変わり、短い手足が生え、頭部にはただ大きな口だけが開く。

 さっき黒い肉塊がストレイジに変質するまでの過程で見た、サンショウウオのような姿になった。

「はー……何でこんな姿にするんだ。お前、もっと格好よいのとか強そうなのに変質させろよ。実在の聖獣そのものは知らなくても、人間はある程度聖獣や魔物の姿を知識として知っているだろう。まあ本物とはいろいろ違っているがイメージの助けにはなる。姿形をイメージさえすればそれに近い聖獣になる。こいつはルーパーっていう聖獣で、格好よくもなければ強くもないぞ。せっかくお前の母親の初陣なのに、こんなダサい姿にするなんてかわいそうじゃないか」

「あんたがかわいそうだなんて思うわけないでしょ。それに仕方ないじゃない。イメージでその姿になるなんて知らなかったし。私の頭には、あんたが変質途中で見せたこの姿しか思い浮かばなかったのよ」

「あーん? ああ。あれは人型になる過程でしかないんだが。なるほど言われればこのルーパーに似ているかもしれないな。イメージに近い聖獣に変わるって言ってなかったか。悪いな。くくく」

 絶対わざとだ。どんな姿になるか面白がっていたに違いない。

「まあ、この悪魔は実に雑魚っぽいからこいつでも戦えるだろう。ほら、命令しろよ。さっきも言ったがもうこの聖獣は感情や思考は無い。お前の母親の意識は無いし話しても理解出来ない。でも命令だけは聞ける。正確には命令に込められた意図に反応するのだが、伝えるには声に出すのが一番確実だ。だから言えよ。戦闘に関する命令ならちゃんと伝わる」

「じゃ、じゃあ。戦って。お母……さん」

 この醜い化け物をお母さんと呼ぶのも、お母さんに戦えと命令するのもためらわれた。

「もっと具体的にだ。飛びかかれとかかじりつけとか。天使は自ら戦わない。戦えないわけではないが悪魔ごときの相手は聖獣で十分だからだ。最も今のお前はまだ天使の変質を始めたばかりで己で戦う力は無いけどな。聖獣は基本自律的に動いて戦闘する。一から十まで声に出して指示するなんて間に合わないからな。要所で的確な指示を出すんだ。避けろとかそこで攻撃とかな。人間にわかりやすく例えるならゲームで戦闘していて、基本オートで任せておいて必殺技を出すときだけコマンドを入力するようなものだな」

 そういうゲームは子供の頃しかしていない。それに受験でしばらく遊んでなかったしなあ。

「じゃあ、お母さん、あいつに飛びかかって。かじりついて」

 お母さんだった獣は私の命令を聞くと、そのずんぐりした体躯からは想像出来ない素早さで悪魔に向かっていった。

 さっきまでひどくトロい動きをしていた悪魔も、異様に素早く反応する。もう私たちの周りを覆い尽くして台所を埋めているつるんとした漆黒の表面を、奴のたった一つの口が滑って移動する。

 お母さんがかじりつこうとした所に悪魔の口が来る。お母さんは牛ぐらいの大きさだが、それをはるかに上回る壁一面もある大口に変形して丸飲みしようと開く。

「逃げて!」

 私の声、いや命令に反応してお母さんがびゅっと飛びのく。飛びかかろうと空中にいたにも関わらずいきなり軌道を直角に変えて飛び退き、音を立てて閉まる大口をかわす。

「いいぞ。飲み込みが早いな。今見た通りだ。聖獣まかせでは負けてしまうようなタイミングで、的確な命令を出す。聖獣の動きは自律よりも命令が優先される。命令時には天使の魔力で動かすからだ。だから今みたいに、たとえ空中にいて聖獣自身では軌道を変えられないときでも命令なら変えられる。そうして、必要なときに必要な命令を下すことでただの聖獣では勝てない悪魔にも勝てるようになる」

「この悪魔は雑魚だって言ってなかった?」

「雑魚だが、お前の聖獣も雑魚だぞ。それに天使としても命令を出す指揮官としても未熟なお前だ。まあ勝率は五分五分だな」

「そんな。楽勝じゃないの?」

「そんなこと言ったか?」

 彼はにやにやしている。くそ。むかつく。こいつの話しっぷりだとこの悪魔は簡単に倒せそうだったのに。ひどい。私をからかって遊んでいるんだ。

「ほれほれ。うかうかしているとお前の母親が食われちまうぞ」

「あ、避けて」

 悪魔の口に飲まれようとする聖獣が、私の命令によりびゅっと飛び去る。間一髪だ。命令による待避は聖獣自体の動きよりもはるかに早い。

 聖獣の動きは素早い。でも周りを覆う漆黒の壁を滑る悪魔の口の方が素早いようだ。聖獣がどこにかじりつこうとしてもそれより早く悪魔の口がその眼前に立ち塞がる。

 聖獣自身に任せていてもかじりつけそうにない。なら命令ならどうだろう。

「悪魔の口を避けて、かじりついて」

 びゅびゅっと素早く駆け回り、口から離れた漆黒の壁にかじりつく。やった。攻撃成功だ。

 だがすぐに、悪魔の口が漆黒の壁を滑ってくる。聖獣にかじりつこうとする。

「逃げて!」

 びゅっと飛び退く聖獣。悪魔の身体をわずかにかじった程度だ。

「こんなんじゃ倒せないよお」

「そうだなあ。もたもたしていたら時間切れだな。上級悪魔が来てしまうぞ。いや、もう来ているかも」

「どっちなのよ」

「さあな」

「わかるんでしょ、ストレイジ」

「わかるけど教えない。くっくっく。その方がスリルあるだろ。もう来ちまったって言ってみろ。お前は戦意喪失でジタバタするのをやめちまうだろうが。それじゃあ面白くない。せいぜいあせってあがきな」

「あんた、私を妻にしたいんじゃないの。だったらもう少し協力してよ」

「したいさ。お前は今までの女の中では一番いい。でも駄目なら駄目で構わない。神にとって時間は無限にあるんだ。もっといい女をいくらでも探せるさ」

 くそ。神は天使の試練に手を出せないって言っていたな。期待するだけ無駄か。でも話だけは出来る。何とかこの状況を打開する情報を得ないと。

「この子、何か特殊な能力とか無いの?」

「母親をこの子呼ばわりか。まあ聖獣をお母さんって呼ぶのが辛いのはわかる、気がする。いけねえ。神は嘘つけない。わからないのにわかるなんて言っちゃいけないな」

 神が嘘つけないっていうこと自体嘘だと思う。今までの会話で嘘に当たることが一つも無かっただろうか。こいつは何もかも信用出来ない。神じゃなくて悪魔だと言われた方が納得出来る程性格が悪い。

「さすがマンガや怪談である程度の知識を得ている人間だ。まあその知識は間違いも多いけどな。察しがいい。そう。聖獣はそれぞれ特殊な能力を持つ。でないと多種の聖獣を使役する意味が無いからな。用途に応じて的確な聖獣に変質させて活用しろ」

「この子より役に立つ聖獣に変質させろってこと?」

「違うな。さっき見たとおり、お前の力は弱い。まだ変質に時間がかかりすぎる。もう一度変質させている暇は無いぞ」

「じゃあ、この子を活用しろってことね」

「いいねえ。母親を戦闘の道具にしながら冷静だ。お前は本当ひどい奴だよ」

「私もう泣かないよ。だからそんなこと言ってももう無駄だよ」

「はいはい。へへへ。そろそろからかうのも飽きてきたところだ。いいぜお嬢様。何なりと答えてやるよ」

「私の名前はショウコよ」

「知っているよ。名前で呼んでほしいのか。かわいいな」

「そんなんじゃないわよ。お嬢様なんてあきらかに馬鹿にしている呼び方はやめて」

「わかったよ。お前は最高に面白いおもちゃだ。ここで終わらすには惜しい。手助けは出来ないが口でならいくらでも助けてやろう」

「この子の能力は?」

「大飯食らい」

「そんなんじゃなくて」

「大事なことだぞ。いくらでも食べられる。体積以上の物でも連続高速で食べられるんだ。この家全体を覆い尽くす悪魔でもな」

「他には?」

「ぬめる。ぬるぬるとオイルみたいな体液を分泌させて、体表を滑らせることが出来る」

「それってつまり、牙のように尖った物が刺そうとしても、滑って逸らせるってこと?」

「んー、ヒントが簡単すぎたか。まあよくある常套手段だものなあ」

 それが答えだ。そこまでわかれば十分だ。

「口をかわしてかじりついて」

 聖獣は命令を聞くと、素早く悪魔の口の反対側まで移動して漆黒の壁にかじりついた。

 その聖獣を食らおうと、悪魔の大口が壁を滑って迫ってくる。

「ぬめって」

 自信満々に命令する。でも聖獣に変化はない。体表にオイルが分泌されたようには見えない。

「え? え?」

「ぷ、くっくっく」

 ストレイジが吹き出す。

「あ、あんたまさか、嘘ついたの?」

「いいや。神は嘘つけない。俺はぬめるって言ったけどそれは形容しただけだ。そんな命令じゃあ反応しないぜ」

「じゃあ、どうすれば」

「耳を貸せ」

 忌々しいストレイジに近づくのは嫌だったけど仕方ない。私はなるべく身体を離して首だけ近づける。

「いいか、こう言うんだ」

 ストレイジは神の声、甘く蕩ろける清涼な声で私にささやく。情感たっぷりに。

「そ、そんなこと、言えるわけないでしょ」

「言わないと、ほらほら、お前の母親がやばいぞ」

 見ると悪魔の大口がすでに聖獣を捕らえていた。牙が突き立てられようとしている。もう回避を命令しても牙からは逃れられない。防御しなければ。

「濡れて!」

 私は乙女にあるまじき恥ずかしいお願いをしてしまう。

「いいぞお、そそるそそる」

 ストレイジは私の恥ずかしいセリフに喜んでいる。ガキみたいに下品なことでいちいち喜ぶな。

 白いサンショウウオのような姿の聖獣の体表がどぷりとぬめる。見てわかる程大量のオイルが分泌されている。

 大きく鋭い牙がその身体に突き刺さる。しかしその鋭い先端すら特殊なオイルにぬるんと滑ってしまう。

 滑る牙。聖獣はぬるんと、閉じる牙に押されるようにして悪魔の口に飲まれてしまう。

「いやあああ、お母さああああああん」

「あわてるなよ。もう決着だ。あの鋭い牙に貫かれなければそれだけでよかったんだ。結果の見えた勝負はつまらない。とっとと終わらせろ」

「う、うん」

 私は大きく息を吸い込む。悪魔の体内にいる聖獣に声が届くように。

「食べて!」

 私が大きな声で命じると、途端に牙を噛み合わせた悪魔の口が歪む。

 ごぼごぼと、ドス黒い深紅の血を口から吹き出す。悪魔の血ってほとんど黒に近いけど一応赤なんだ。

 みりみり。ぶちぶち。ばつばつ。ずばずば。

 嫌な音。嫌な光景。漆黒のつるんとした壁が波のようにうねる。ところどころ穴が開き、聖獣の白い姿がのぞく。

 その姿は、深紅の血にまみれて黒く染まっていた。

「お母さん、お母さん、ごめんなさい。ごめんなさい」

 それ以上見るに耐えなかった。私はうずくまり、顔を手で覆って泣きながら、母に残酷なことを強いているのを謝り続けた。

「ほらもう終わったぞ。行くぞ。せっかく勝利したんだ。ここで上級悪魔に捕まって終わりなんてつまらない」

 ストレイジは私の手をつかんで立ち上がらせる。

「触らないで」

「聞こえないぞ」

 私は憎む男に手を引かれ、それを振り解く気力も無いほど憔悴しきっていた。

 家中血塗れだ。漆黒の肉片があちこち落ちている。かなり汚い食べ方をしている。行儀のいいお母さんならこんな食べ方はしない。

「お母さんじゃない、お母さんじゃない、お母さんじゃない……」

 私はぶつぶつつぶやき続けた。後ろをついてきている血塗れの聖獣を見ないようにし、ねぎらいもしなかった。

posted by 二角レンチ at 14:38| 天使の試練 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月19日

天使の試練(6)悪魔 5

天使の試練(6)悪魔 5

 夜。私は男に手を引かれて夜の街を歩いていた。

 聖獣は今、私の肩の上で丸くなって眠っている。マリモ、いや、饅頭みたいなただ丸くて小さい姿の聖獣に変質させた。

 この聖獣の姿はバアルというらしい。人間の伝承では大悪魔の一人として有名で、私も聞いたことがある。でも実際は悪魔でもなければ高等でもない。もっとも弱くて無害な聖獣。ただ連れ歩くのに便利というだけしか使い道が無かった。これ以上小さい聖獣はいないらしい。

 服は悪魔の血に濡れていない。神であるこの男、ストレイジが服を変えてくれたからだ。

「神は万の姿を持ち、それぞれが化身として存在している。それぞれが自分の意志と思考を持ち、独立している。一個体が一つの肉体と精神しか持たない人間には理解出来ないだろうがな。本体というものはいない。どれか一体でも化身が残っていればその神は存在していることになる。互いに連絡は取れないし戦争時以外は群れたりもしない。神の軍勢に配下はいない。全て自分の化身だけで軍を成す。緊急事態の招集以外、互いに作用出来ない」

 私はストレイジの話を、返事する気力も無くただ聞いていた。さまざまなショックが重なって疲労困憊していた。もう寝たかった。何もかも忘れて眠り、明日になれば全部夢でよかったと言いたかった。

「もう大丈夫だろうが、もう少しだけ歩くぞ。これも試練のうちだ。人間の交通手段は使わない。陸地をただ歩くのみで移動する。狭い島にいる奴なんか悲惨だぞ。ろくに逃げる場所も無い。その点お前は幸運だ。こんな大きく入り組んだ街に住んでいた。お前の家についた上級悪魔はきっと今頃獲物を逃がしたことに歯ぎしりしている。でも俺たちを見つけられない」

「どうして? あの下級悪魔は私が天使になると知って襲ってきたんでしょ」

「お、ようやくしゃべる気になったか」

「あんたの話を聞いていると、歩きながら寝ちゃいそうだからね」

「いいぞ。そうやってせいぜい強がっていな。くくく。お前との旅は退屈しなくて済みそうだ」

 彼は、いや神はみんなこうなのかもしれないが、人間の絶望や苦しむ表情を見るのが好きだ。だからからかう。いくらでも心に刺さるひどいことを言う。こんな奴に負けるものか。お父さんとお母さんを無事人間の姿に戻すまでの辛抱だ。

「神が妻にするべき人間の女を選んで天使の力を与える。その与える瞬間だけは隠せない。そういうルールだ。ルールを破る人間は代償として何の力も持たない。ルールを遵守する神や悪魔はその見返りに魔力を得る。天使の試練の開始時は、天使の力を与えたことを世に知らしめねばならん。こっそりスタートを切るずるは許されない。かと言って上級悪魔がそのそばにいることはまれだ。だから上級悪魔は天使のそばにいる配下の悪魔に足止めさせる。それを倒して逃げるのが最初の試練、第一ステージってわけだ」

「じゃあ、もうこれ以上私は悪魔に探知されないってこと?」

「今はな。でも天使の力を使えば探知される。その聖獣も、再び変質させるときは気付かれるぞ」

 私は肩に載って眠っている饅頭みたいな聖獣をなでる。不思議と肩から落ちたりしない。張り付く能力を持つらしい。何の役にも立たない気がする能力だ。

 これが私のお母さん。私の力で聖獣に変質させてしまった。元の人間に戻すには、私が天使の試練を乗り越え完全な天使になり、その力で戻すしかない。

「天使の試練の間、神の化身の一人がそばにいる。戦闘に協力は出来ないが、身の回りの不便さを解消する程度の手助けは許されている。天使の試練はいかに悪魔を退け生き残るかを試すものであって、サバイバル生活なんてくだらないことは関係ないからな。よし。ここらでいいだろう。休むとするか」

 広い公園。木立の中に私たちは入る。

 ストレイジが木立の中の草むらに触れる。草が、木が、変質して小屋になる。

「寝るときはスケスケのネグリジェかあ? んー?」

 彼が私の服に触れる。私の服が変質し、透けたいやらしいネグリジェと布の少ない過激な下着に変わる。

「やっ、やだあ」

 私は胸を抱えてうずくまる。

「来いよ」

 彼は私の手を引っ張って立たせる。私は胸を手で隠しながら引きずられていく。

「いや、いや」

「心配するなって。何もしねえよ」

 彼が草木を変質させて作った小さな小屋の戸が開く。そこには大きなベッドが一つ置かれていた。

「いやああああ!」

 ひどくおびえる。うそ。本気で?

 ストレイジは人間離れした美貌をしている。精悍な面構えでとてもりりしい。でも長くウェーブのかかった長髪と相まって女のような美しさも備えている。完璧な美貌。たくましく、でも余分なところは無い筋肉。

 そして立派なあそこ。彼が今の姿に変質するときにみた裸。とても大きくて、立派で、処女の私は子供の頃に見たお父さんの以外で見るのは初めてで。

「顔赤いな。期待しているのか。何もしないつもりだったがしたがっているならしょうがない」

 彼は私を乱暴にベッドに放る。私が起きあがる暇もなく彼が覆い被さってくる。

「うそ、いや、やめて、誰があんたなんかと」

 いかに格好よくても男として魅力的でも、こいつは悪魔以上に残酷な神だ。私を無理矢理天使に変えて妻にしようとする。そのためお母さんとお父さんを人質にして私を脅している。卑劣で憎しむべき敵だ。

 彼はたくましすぎる。力が強すぎる。怖い。男ってこんなに怖いんだ。

 友達が次々経験していくのを聞いて、うらやましいと思っていた。でもこうして男に押し倒されると、そんなものは何も知らない処女の幻想で、実際には恐怖と嫌悪しか感じない。

「やめて、本当に、やめて……」

 私は怖すぎて泣き出してしまった。

「いいなあ。女の泣き顔。恐怖にひきつった顔。最高にそそるぜ。やはり人間を苦しめるのは面白い。もっと楽しませてくれ」

 彼は私の唇にキスをした。

 頭が真っ白になる。信じられない。信じたくない。私の大事なファーストキス。こんなに憎しみ嫌う男に捧げるためにとっておいたものではない。なのにあっさり奪われてしまった。

 とても悲しかった。とても絶望した。こんなにショックなのか。これがキスなのか。甘くうっとりするものと夢見ていた。夢と現実はあまりに正反対だった。

「ふえ、え、えええええええ」

 私は本気でぼろぼろ泣いた。

「ふむ、今日はここまでだな。もう十分だ」

 彼はあっさり身体を起こすとベッドから下りた。

「一気に苦しめても楽しめないからな。天使の試練が終わるまで数週間あるんだ。それまで少しずつ楽しまないとな」

「ひっく、えぐ、私、初めてだったのに、そんな、面白がって?」

「当然だろ。俺がそういう神だとわかっているだろう。人間の絶望が、羞恥が、苦悶が、神にとってはたまらなく楽しいショーなんだ。ファーストキスなんてくだらない。でもそれにこだわりいちいち絶望する人間は実に面白い」

「他の、女の子にも、こんなこと?」

「もちろん。毎晩少しずつ楽しませてもらう。ははは。心配するな。他の女も初めはいやがっていたのに最後は腰を振っておねだりしてくるようになる。神の美貌と魅力に人間はあらがえない。お前もじきに堕ちるさ。どこまで抵抗出来るかが見物なんだ。せいぜい俺を長く楽しませてくれよ」

 ひどい。ひどすぎる。乙女の大事なファーストキスを、ただ泣き顔を見るためだけに奪うなんて。

「ゆっくり寝ろよ。そこに扉があるだろう。小さいがトイレとシャワーも作っておいた。じゃあな。明日の朝また会おう。俺はそこにもう一軒小屋を作ってそこで休む。ここは安全だから安心しろ。悪魔は襲撃してこない。朝まではな。朝からまた旅を続ける。今日はもう休め」

 私は男に押し倒され強引にキスされた恐怖に泣いていた。そのショックに苦しんでいた。

 でもドキドキしていた。これは恐怖のドキドキ。怖い目に遭ったせいのドキドキ。そうに違いない。でなければこんなに嫌な気持ちになって泣くわけがない。

 私は自分では気付かなかったが、唇を指でなぞりながら感触を思い出そうと必死になっていた。

 神は憎しみと愛情を表裏一体に作った。だから私が彼を憎しみ嫌うほど、その裏側の愛情も強まっていく。そう言っていたな。

 そんなことあるわけがない。こんなに嫌なのに。今でも涙が止まらないのに。私の身体は彼のたくましい肉体に押し倒された興奮で火照っていた。天使の魔力のせいだけではなく、身体が熱くなっていた。

「抱かれたい……」

 ぽつりとつぶやく自分に驚く。唇を奪われ、その唇が自分を裏切ったようで、自分の身体が少しずつ侵略されている悪寒にぞっとした。

 こんなのおかしい。これが神の魅力。人間にはあらがえない。そんな馬鹿な。私があんな奴に惹かれるわけがない。屈するわけにはいかない。

 なのにどうして。ああ。いけないのに。今日は辛いことがたくさんあった。明日からさらに辛い日々が始まる。もう日常に戻れない。なのにどうして。いや。こんなの。私の手が裏切る。こんなの私じゃない。私の意志じゃない。

 私の身体は火照っていた。彼に押し倒されたあの重さと頼もしさを思い出す。無理矢理奪われた唇に残る甘美な感触を思い出す。そして私の手は、いけないと思いながらも火照る身体を鎮めるためにぐっしょり濡れた所へ伸びていった。

 はあ、あ、ん、は、ふわああああああ……

 翌日、シャワーを浴びてさっぱりした私は小屋を出た。

 ストレイジがいた。

「おはよう。よく眠れたか? それとも眠れなくなることでもしていたかあ?」

 ストレイジはにやにやしながら尋ねる。途端に私の顔は熱く火照る。

「まさか、のぞいて?」

「のぞく? くっくっく。俺は言っただろう。お前をずっと観察していたと。観測していたと。お前のことはお前よりもよくわかっていると。お前がどこにいて、何をして、何を感じているかよくわかっている。観測出来ないのは思考だけだ。身体の火照りも快感も動きもよくわかっている。神が人間を知覚するのは造作も無い。のぞかなくても見える。寝ていても情報を得られる。人間の寝るというのとは少し違う。覚醒しながら動かないだけだ。動くエネルギーを他の作業に使っている状態が、寝ているように見えるだけにしかすぎない」

「じゃあ、じゃあ」

「ばっちり楽しませてもらったぜ。俺の名前を何度もつぶやいていたな。かわいかったぜ。ああいう風に俺に触って欲しいんだな。よくわかったよ。今晩お望み通りに触ってやる」

「へ、変態、痴漢、最低、うわあああああ」

 私は泣き崩れる。乙女が、一人でしている恥ずかしい姿を全て見られたのだ。それもただ見るだけではない。私のつぶやきも聞かれ、私の快感すらも情報として知られていたなんて。恥ずかしいを通り越している。死にたいとはまさにこのことだ。

「昨日あったいろいろなことに比べれば、こんなの大したことないだろう。昨日でお前は十分精神的に強くなったはずだ。そこまでショックを受けてはいないだろう。ほれ。飯にするぞ」

 たしかに死ぬ程恥ずかしいが、昨日のことに比べればショックは少ない。それほど傷ついていない自分に驚き、失望すら覚える。

「エッチ、馬鹿、変態」

「お前俺がマゾだって言っていたなあ。たしかに面白い。小娘にののしられても何とも思わなかったが、今はくすぐったい楽しさがある。礼を言うべきかなあ。新しい遊びを教えてくれて。でも神が人間に礼を言うのはおかしいしなあ」

 どこまでも人を馬鹿にして。私は涙をぐしぐしと手で拭う。

「昨日は恥ずかしがっていたくせに。もう見られても平気なのか。この痴女が」

「え? あっ!」

 スケスケネグリジェ。過激な下着。自分の格好をすっかり忘れていた。

「いい、いい。あわてる姿は昨日十分楽しんだ」

 彼が私の服を変質させる。私はよそ行きの、おしゃれな服装に変わる。

「もう。……ありがと」

「ふうん。素直に礼を言えるんだな。俺のこと憎んでいるんだろう」

「当たり前でしょ。でもそれとこれとは別。親切されたらちゃんとお礼を言いなさいって、お母さんが言ってたからね」

 私は肩に載る、饅頭みたいな聖獣をなでる。お母さん。私がきっと、元の人間に戻してあげるからね。

「ふうん。いい母親だな。多分。神には親がいないからわからないが」

「親がいないって、妻を娶って子供を産ませるんじゃないの?」

「俺の子供が産みたくてたまらないようだな」

「そ、そんなわけないじゃない」

「いいんだぞ。神に愛され抱きしめられキスされたんだ。一人で慰めずにはいられない、強力な魅了、チャームだ。人間があらがえるわけがない。でも残念。天使の試練が終わるまでは処女でいないといけない。完全な天使になるまでに処女を失うとその資格も失われるからな。安心しろ。この旅の間俺はお前を抱かない。ただ愛撫するだけ。俺に触って欲しくてたまらないだろう。毎日少しずつだ。かわいがってやるよ」

「い、いらない、いらない」

「ふふん」

 彼は鼻で笑う。ううう。たしかにあらがえないほど欲情し、身体が火照ってしまった。でもあんなの反則だ。男なら正々堂々チャームの魔力なんか使わないで女を口説くべきではないのか。そうしたら私だってもう少し素直に……

 いけない。本当に魅了されている。こんなの魔力による嘘の気持ち。私は最後まで彼を憎み続ける。決して愛に裏返ったりしない。

 天使になってお父さんとお母さんを人間に戻すまでの辛抱だ。そこで私も天使の力で人間に戻る。多分可能なはずだ。それでおしまい。天使にも、こいつの妻にもなるものか。思考は読めないって言っていた。嘘か本当か知らないけれど、それまでは私が最後にこいつを裏切るつもりなのを悟られないよう従順なふりをしなければならない。

 ストレイジは私の思惑に気付いていない。のうのうと土を変質させてテーブルを作り、その上に温かい食事を作り出す。

「これ、元は土や石でしょ。食べられるの?」

「変質は根本的に他の物に変えてしまうことだ。だから元が何かは関係無い。草木を小屋にしたり、土や石をテーブルや食べ物に変えられる。だが聖獣は人間か聖獣からしか変質出来ない。完全な天使でなければ聖獣を元の人間に変質させることは出来ない」

 私はおそるおそる食事に口をつける。あ、おいしい。

「美味いだろう。人間の作る食事と違い、身体に害になるものは一切含まれていないからな。毒は不味い。人間の食事が不味いのは毒になる物がたくさん含まれているからだ」

 くやしいけどおいしい。お腹が空いているから余計にだ。私はばくばく食べる。テーブルの上で饅頭みたいな聖獣も皿に口をつけ、すごい勢いで食べていた。

「この子、バアルだっけ。この聖獣は、まん丸で手足も口も無いのにどうやって食べているの」

「必要なときだけ生やしているのさ。細い手足が素早く動くから見えないだけだ。よく見れば少しは見えるだろう」

 じっと目を凝らす。たしかにびゅんびゅんと何か羽虫でも飛び交っているように見える。細い手足を伸ばし、どんどん食べ物を自分に引き寄せ削り取るように高速で食べていく。

「昨日のルーパーだっけ。あれといい、聖獣ってみんなこんなに食いしん坊なの?」

「たまたまだよ。攻撃と食事が同等の奴はこういうものだ。攻撃に特化した奴はこんなにがつがつ食わないさ」

「これからどうするの」

「お前に宿した天使の力で、お前が完全な天使に変質するまで数週間。早くても三週間だし遅くても六週間ぐらいだ。今の時点ではいつまでかわからない。その間徒歩による旅を続け、襲ってくる悪魔を退ける。旅をするのは試練のうちだ。安全なところに閉じこもってやりすごそうなんてのは試練にならないからな。旅の間、天使の力でないと解決出来ないことを天使の力で解決し、人を助ける。善行を積むのも試練の内だ。当然、天使の力を使えば悪魔に察知され襲われる。だからむやみに使うな。小事は捨ておけ。天使の力は人間には成し得ない奇跡だ。人間がどうにか出来る程度のことには首を突っ込むな」

「ええと、それって」

「賢いお前だ。わかっているだろう。ほとんどのケースは天使の力を使う必要がない。人間にどうこう出来る。簡単に言えば悪魔の仕業以外は見捨てろ。関わるな。悪魔のせいで苦しむ人だけを助け、そのせいで悪魔に襲われる。わかったな」

「つまり、普通に困っている人は見捨てろってこと?」

「そうだ。そんなことしていたらいちいち悪魔を引き寄せる。命がいくつ有っても足りない。戦闘は最小限に。旅の間に遭遇する悪魔の仕業以外で悪魔に襲われる危険は避けろ」

「そんなの出来ないよ。天使の力なら救える人がいるのに助けないなんて」

「どのみち今のお前に出来ることはろくにないだろ。昨日よりはましだが、今は何も出来ないに等しい。一日、一時間、一分ごとに天使の力による変質は進む。お前はどんどん天使の力を行使出来るようになっていく。将来は大勢の人間を救えるだけの力を持つようになる。それでも使うな。助けるな。試練は旅をして悪魔の仕業に遭遇したらそれを解決すること。これはルールだから逆らえない。でもそれ以外のときに天使の力を使って悪魔を引き寄せる危険は避けるんだ。いいな」

「よくないよ。そんなの出来ないよ」

「いいや出来る。昨日の事で自分でもわかったはずだ。お前は目的のためなら母親を醜い化け物に変質させて悪魔と殺し合わせることが出来る奴だ。同じように、自分が生き延びるためなら無関係の人間を見捨てる。それが出来る奴だ。そうしないと最後まで生き残れない。悪魔との戦闘は極力避けるんだ。いいな」

「あんたに指図されるいわれはないよ」

「あるだろ。お前は俺の妻になる人間だ。天使になるべき人間だ。俺は俺で、その目的のために出来ることをする。いい加減試練に失敗して悪魔になぶられる女を見るのも飽きてきたんだ。あれはあくまで試練失敗の後のサービスみたいなものだ。それが目的じゃあない。お前にはなんとしても試練を乗り越え天使になってもらうぞ」

「あんたが勝手に巻き込んだんでしょ。知らない」

 いくら口論したところで私に選択の余地は無い。どのみちまだ私の力では人は救えないらしいから助けようもない。

 でももし力があれば、困っている人を救えるのなら助けたい。偽善ではない。お父さんとお母さんを救う。その強い決意が、人を救うことの大切さを私に教えてくれた。

 力を手に入れていい気になっているだけかもしれない。でも私は、人を助けられるのなら助けたいと思っていた。

 でもそのせいで悪魔に襲われるのは怖い。悪魔と遭遇する危険を減らすほど試練の成功率は高くなる。自明の理だ。お父さんとお母さんを救うことが第一だ。そのために、見知らぬ他人がどうなろうと知ったことではない。

 そう考えるのが嫌で、人を助けることにムキになっていた。彼が何度も私のことを冷酷な打算で動けるひどい奴だとののしるから、それを覆して見せたかった。

「少し休んだら出発するぞ。歯磨けよ。洗面台とかも小屋の中に作っておいてあるだろ」

「わかってるわよ、もー、うるさいなあお父さんは」

 はっとする。まるでお父さんに小言を言われている気持ちになってしまった。ストレイジの肉体はお父さんが変質したものだからだろうか。それとも私が、彼のことをお父さんみたいに頼もしく思ってしまっているのだろうか。

 またひどいことを言われてからかわれる。そう身構えた。でも彼はなぜか何も言わずに無言だった。私は何も言われないうちにそそくさと立ち去った。

「いい娘だな」

 ストレイジは自分の胸をなでながら、自分の肉体である私のお父さんに話しかける。

「神は天使を妻に娶る。でも子供は作れない。神の力を持ってしても親子というものは成し遂げられない。ただ化身を作り出すだけ。人間に対してうらやましいと思うのは、ただその一点だけだ」

 ストレイジは私の知らない、とても優しい表情をした。

posted by 二角レンチ at 13:18| 天使の試練 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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